Call
間柴久美は思いをめぐらせた。お気に入りのクッションを抱き寄せて、はしの部分をつまんでみる。やわらかな感触を楽しみつつ、想像する。幕之内一歩の事だった。
いい関係を続けてきた気がする。告白はなかったものの、男と女としてもうすでに付き合っているようなものだ。おままごとのようでじれったい間柄からはなかなか進展しないものの、久美は自分が一番一歩に近しい女性である事を自覚している。
おぼっこい顔をして、まろやかな頬を染める彼と一緒にいると気持ちがやさしくなれる。とまどいがちに名を呼ぶ声がうわずって、それがまた愛しいのだ。
ああいう人と家庭をつくることができるのなら、という控えめな考え方から、この頃は彼と家族になりたいという具体的な希望がでてきた。久美はもう、彼さえ受け入れてくれるのなら飛び込んでいく勇気を持ちはじめている。
しかしそういうあわい将来をよくよく考えてみると、気になる事もいくつかあった。それは板垣菜々子に一歩を奪われるのでは、という心配よりももっとずっと現実味のない話でもある。
彼のジムには何人か先輩がいた。なかなか厳しいところなので人数は少ないまでも、一歩以外に有望な選手も育っている。なかでも一際目立つのは鷹村守だ。
鷹村は久美がベーカリーショップでアルバイトをしている時に、一度だけ店に訪れた事がある。あの時は今ほど幕之内一歩という男性を意識していなかったが、どうやら彼の方は少しばかり久美に好意を抱いてくれていたらしく、そんな一歩のことをからかう目的で鴨川ジムの面々が久美を見にきていたのだ。
なかでも鷹村は、まるで親の敵かのように久美を見ていたので、よく覚えている。最初は兄である間柴了の関係者だろうかと思っていた。鷹村の体格は立派であるし、顔立ちは精悍で目つきも悪い。大概そうした風貌の男といえば間違いなく兄がらみである。あまりよろしくない方面での知り合いかと久美は警戒していたが、会計の際に「ツンツン頭した中学生みたいな男、知ってるか」と声をかけてきたので、一歩の知り合いだとぴんと来たのだ。
久美が返事をする前に、鷹村がまんじゅうみてえな顔の、と付け加えるものだから思わず笑ってしまったのだが、つぶさに観察するような視線があまりにも鋭いのですぐに引っ込んでしまった。低い音域の彼の声が獣の唸り声にもにて恐かった。
おつりを渡す指先も緊張で縮こまる。わずかに震える久美を背に、鷹村は何事もなかったかのように店をあとにした。
生きた心地がしなかったあの感覚を思い出して、久美は身震いした。抱き潰すようにクッションに腕をまわす。そのままふっくらしたラインのそれに顔を沈ませた。
久美が鷹村に感じた違和感は、他にもあった。アルバイト先での印象が良くなかったせいで過剰に反応してしまっているのかも知れないし、鷹村はあれで後輩思いのいい先輩なのかもしれない。
しかしそれだけでは説明できない何かが引っかかる。
たとえば一歩と二人でいるとき。決まって話しが弾みだすと、鷹村が一歩を呼びつけることが多かった。そもそも鴨川ジムのメンバーは仲が良いため、二人きりにはなかなかなれなかった。久美の兄がいちいち文句をつけにくるせいもあるだろうが、そんな中でようやく見つけた貴重な二人の時間を壊すのはいつも鷹村ではなかったか。
めずらしく一歩からかかってきた電話も、たいていは鷹村の声を拾ったあとに切られてしまうではないか。久美からかけた電話すら、雑音と吼えるような大きな声が一歩の言葉をかき消して、いつも「すみませんでした、久美さん。じゃあまた今度」という焦ったような一歩の声だけが耳に残る。どんなに話したい事があったとしても、なかば強制的に終了してしまうことが多い。
今日だって、ひさびさのデートだったのだ。本当なら夕飯時までいっしょに出かける予定でいた。それなのに、示し合わせたかのように現れた鷹村が一歩を連れて行ってしまった。もともと鷹村と一緒にいた青木や木村が鷹村を制止したが、無駄だった。傍若無人ぶりに慣れている彼ら三人は口々に久美に謝罪をして、結局久美は一人で帰宅するはめになったのだ。
さすがに我慢もできなくなってきた。猫の子をひっつかむように抱えあげて、文字通り一歩を持っていった鷹村を思い出すと憎くてたまらなかった。
彼は――鷹村はいったいどういうつもりなのか。
ぐるぐると考えがめぐる。嫌な予感を振り払うように、久美は顔をうずめた。サテンのクッションが受け止める。彼女はほんのすこし、目じりを拭うようにしてすりつけた。
リアリティのない、冗談のような心配事が現実になったらどうしよう。彼女の女のカンは警戒しろと告げてくる。しかし良識がそんなことはないと否定して、まるでいたちごっこのように、久美の感情は安定しない。
もしあの男が、久美の考えるように一歩に対して執着していたら、それこそ手段は選ばずに搦め手をついてくるに違いない。自分達のすきをついて久美から一歩を奪っていってしまうに決まっている。
鷹村はけだものの眼をしていた。ああいう眼をしている男は容赦がない。あんな眼をしておいて落ち着いているなんて、久美には理解できなかった。
久美は意を決したように、緊張した面持ちでテーブルの上においたままの携帯をとった。まるで自分の指先ではないような、変にぎこちなさのある指使いで電話帳から一歩の電話番号を選択肢し、通話ボタンを押した。
彼はまだ鷹村に連れまわされているかもしれない。それでも一歩は久美からの電話に必ず出てくれるに違いない。これは鷹村にたいする意趣返しだ。いつもいつも邪魔をされて大人しくしているほど、久美も少女ではない。
これ以上鷹村が行動をおこす前に、一歩が久美を好きでいてくれる今、アドバンテージがどちらにあるのかわからせておかないことには安心できなかった。
はやく、声がききたい。