Krankheit
予想外の出来事に、一歩のまあるい目はますますまるくなった。
何年にもわたって鍛えあげられた筋肉は、意識して力をいれている時以外はほどよくやわらかい。トレーナーごしでもわかる分厚い胸板にしっかと抱きとめられて一歩は自分の心臓の音と、鷹村の心臓の音をきいた。
「あっぶねえな、ボサッとしてんじゃねーよ」
これだから小者はいかんのだとでもいいた気なくちぶりに反して、躓いて転びそうになった一歩の背にまわった腕は信じられないぐらいやさしかった。大きなてのひらがとてもあつい。一歩は鷹村の体温にどぎまぎさせられた。
「どうしたんスか」
「おう。なんか一歩のヤツが足元おぼつかねえんだ」
スパーを終えた木村がいぶかしげな顔をしてリングを降りてきた。
「一歩ォ。おまえ大丈夫かよ?」
「どうせ限界考えずに無理したんだろ。ジジイに怒られっぞ、お前」
「す、すみません。鷹村さん、もう大丈夫ですから」
おずおずと自分を支えてくれている鷹村に進言して、一歩がやんわりとその手から逃れようとした。その様子にもう大丈夫そうだと判断した木村は、すでに二人から離れて青木に声をかけている。
鷹村は何が気に入らないのか、ついさっきまでの心配そうな表情をがらりとかえて一歩を見下ろした。こめかみのあたりがひくひくと痙攣している鷹村の人相は凄まじく悪い。鷹村の突然の不機嫌面に他の練習生たちまでもが勢いよく目をそらして自分のメニューに没頭しだした。
へらへらとしながら眉じりを下げた一歩は、身じろいでもいっこうに解放する気配のない鷹村を見上げてぎょっとした。ぎらぎらとした不気味な瞳におびえた自分がうつっている。耐え切れずにひっ、と小さな悲鳴をあげてしまった。咄嗟にこれはまずいと思ってすばやく口元をおさえたが、無駄だった。一歩はこの動作のせいで、確実に鷹村の機嫌の悪さに拍車をかけてしまったのだ。
一歩の腰をむんずと捕まえて、鷹村は米俵を運搬するように抱き上げた。一歩が突然のことに慌ててうひゃあと叫ぶが、生憎ジムメイトたちはちらっと鷹村たちに視線を向けたあと、知らん振りを決め込んでいた。一歩は神にすがるようにジムをきょろきょろと見回した。
ジムの雰囲気が急激に悪くなった事を感知したのか、休憩中に談笑していたであろう青木と木村が視線をよこしてきた。一歩からは二人の様子がわずかにしかわからない。このチャンスにかけるしかないとばかりに「木村さーんッ、青木さーんッ! 助けてぇ!」と必死に目で訴えかけるものの、二人とも可哀想な状態の一歩を見る前に、飛び掛る寸前の獣のような貌をした鷹村を直視しているため、目線はすうっとそらされてしまう。
あれは一週間餌にありつけなかったライオンの目だった、と後の二人は語る。しかしそんなことは今現在危険に身をおくはめになった一歩にはまったく関係なかった。
頼みの綱の鴨川会長は今朝から留守にしている。たやすく絶望をその身に感じて一歩はうなだれた。自分の何が人をそんなに苛つかせるのかはわからないが、とにかくこの状況は怖い。本能が危険を察して手足が痺れてきている。いよいよしとめられそうな雰囲気なのだ。何とか強固な拘束から脱出を試みたいが、今少しでも嫌がる素振りを見せようものなら、鷹村は嬉々としてその犬歯を見せて笑うだろう。
これ以上彼に口実を与えてはならない。一歩は自分の不安な気持ちを落ち着かせようと、ぎゅっと目を瞑った。
鷹村の事を敬愛しているからといって、その恵まれた体躯に恐怖を覚えないかといえば、また少し違うのだ。
誰もいないロッカールームで投げ捨てられて、一歩は床の上でうえっとうめき声を上げた。もう、痛いですよ鷹村さんってば。こういうのは嫌だって前にも、と小声でもごもごぶつぶつ文句をたれる一歩を、鷹村は黙って見下ろした。無言の圧力にたまらず一歩が口ごもる。ちいさな子供が悪戯を見つかったときのように、一歩はばつの悪い表情をうかべた。
「てめえ昨日何時に寝やがった」
「え、っと…昨日は早朝のお客さんのために準備したり、あと見てなかった試合のビデオを見てたので、多分四時ぐらいにはぐっすりでした!」
「ほう。で、その前は」
「お、同じぐらい」
です、という語尾は鷹村の舌打ちと不穏な気配によってかき消されてしまった。猛獣がぐるぐると喉を鳴らすように「バッカ野郎が」と言いすてられる。反射的に謝るものの、それは火に油をそそぐような行為でしかなかった。
鷹村がいまだ床にへたり込んでいる一歩の目の前へしゃがんだ。ヤンキーのような粗暴な屈み方に、一歩は上半身をそらして距離をとった。のぞきこむように鷹村は一歩を睨みつけている。
「てめえ何でって顔しやがったな、さっきよぉ。生憎とオレ様は小者どもとはデキが違う」
全てを見透かしている、といった宣言に一歩は目をまるくした。今日は驚いてばかりだとも思う。どうしてと聞きたげな一歩の表情に鷹村はいやらしい笑い方をしてみせた。
「しっかり寝てねえからあんなふうにフラフラすんだよ。だいったいここ五日ぐれーそんなんだろ」
「あ、でもぜんぜん辛くなかったですし、フラフラしたのも今日の一度だけで…」
「うッせえ。よろけたんは今日だけじゃねーだろが! 気づかないとでも思ってたか? オレ様が知ってるだけでも躓いたり避けそこなったりぼーっとしてやがったぞてめえ」
うっと呟いたきり、一歩は言葉をなくした。
ボクサーにとって身体は大事な商売道具であり、資本だ。根幹ともいうべき部分をないがしろにしていたと突っ込まれてしまえば、もはや何の言い訳すらもでてこない。リングの上でなくともほんの少しの油断や怠慢がとりかえしのつかない事態になったりもする。そこに個々人の事情などは考慮されない。プロ意識のなさを指摘されているようで、一歩はいたたまれなかった。羞恥に身体があつくなる。
「ったく、ジジイがいる時じゃなくて良かったぜ。オレ様までとばっちりをうけかねないからな」
俯いて頬を染めている一歩に上から声がかかった。おそるおそる上を見上げると、一歩に何かが覆いかぶさってきた。
うわっという短い悲鳴のあと、「慌ててんじゃねーよ。タオルケットだ、タオルケット」というあきれたような鷹村の声がロッカールームに響いた。
状況をうまくのみこめないでいる一歩におおげさな溜め息をついて、鷹村は出入り口の方へ向かう。つられて立ち上がろうとする一歩に、鷹村は座ってろと唸った。
「もうちっとでオレ様も今日はあがる。そしたら送ってやっからそこら辺のベンチで仮眠とっとけ」
有無を言わせない眼光に射すくめられて、かくかくと頭を上下に頷いた。まるで赤べこのような一歩に鷹村が噴出す。
いいこにしてまってろよ、という台詞は、広い胸で抱きとめられた時のように優しかった。