Verheiratetes Ehepaar
おい、と呼び止められて一歩は息をのんだ。喉のおくから情けない声があがりそうになったものの、ぐっと堪えた。息も整いつつあった身体が、心臓が、早鐘を打つように反応する。
大げさな反応をする拍動を宥めるように右手で胸元をおさえて、一歩はゆっくり振り返った。油をさしていない機械のように、その動作は不自然なまでにぎこちない。しかし、呼び止めた人物をはっきり視界に捉えることができたので、一歩はほっとした。
鷹村だった。
「鷹村さん、今から帰りですか?」
緊張を貼り付けたように硬かった表情が、ふわふわとやわらかくなる。こころなしか一歩の眉は困ったようにさがっていたが、満面に近い笑みすら浮かべていた。
頼りなげな仕草に鷹村の視線が厳しくなる。威嚇とも相槌ともつかない返事をして、ジムの入り口へと歩をすすめる一歩の背中を睨み付けた。
一歩は、コンビニの袋をさげている鷹村に「袋が小さいからちょっと違和感がありますよね」などと軽口をたたきつつ、頬を赤らめた。
鷹村は黙っている。あからさまに態度を変えた一歩の不自然さが妙にひっかかったのだ。少なくとも、この自分が気になっているのだから今日だけではない筈だ。誰にでもそうなのかはわからないが、ふとした瞬間に、一歩はああして脅えている。どういうことなのだろうか。一度気になりだすと苛立ちが抑えられなくなってきた。
一歩は鷹村の鋭い注視に気づきもせずに、上機嫌でいる。それがさらに癪に障るのだが、何時までも馬鹿のように突っ立ってるわけにもいかない。
元々鷹村は八木から鍵を預かっているため、練習があがった後もわざわざ暇をつぶしてまで待っていたのだ。最後に戸締りを確認しなければならない。面倒なものの、引き受けてしまったからには仕方がなかった。
鷹村は、木村にでも押し付けりゃあ良かったと頭をかいた。
「ちょ、ちょっと鷹村さん! 急いでるならボク、家ではいりますって」
「うるせえよ。小者のくせにオレ様の言うことがきけねえってのか?」
高圧的に見下ろされて、一歩は勢いをそがれた。ボクは間違ったことは言ってないです、といった目つきが鷹村を刺激したのか、椅子が投げ飛ばされる。一歩の頬に風圧が触れたと同時にけたたましい音が鼓膜を支配した。
鷹村が放り投げた椅子が、ほぼ直線的に壁にぶつかったからだ。
「うわ! わかりましたよ。なるべくはやくしますから」
「30秒で出て来い」
さきほどちらりと見せた顔とはまったく違う表情で、暢気にも今日あった出来事なんぞを話しはじめた一歩に苛立った鷹村は、なかば強引に一歩をシャワールームへ押し込んだ。軽く背中を蹴飛ばして追い討ちもかける。
人によっては顔をひそめるようなこのコミュニケーションに一歩も慣れているようで、もーだかむーだか不服そうな声を残してドアの向こうへと消えていった。ややあってタイルをうつ水の音が聞こえた。
開けっ放しだった窓をあらかた閉め終え、鷹村はベンチに腰掛けた。一歩の荷物もわざわざ持ってきてやったので、後は本人を待つだけだった。鷹村は時計を確認して舌打ちした。30秒などとうにすぎている。
「おせぇ!」
「すいませんでしたァ!」
腰を90度にまげて勢いよく頭をさげる一歩に、鷹村は仰々しく「うむ。許してしんぜよう」とやや胸をそるようにして言い放った。
鷹村という男は妙にこういったえらそうな身振りがよく似合った。
一歩はあまりにもあわてていたために十分に髪をかわかしていなかった。なんだか鷹村さんの機嫌が悪い、そう感づいた一歩が烏もかくやな大急ぎでシャワーを終えたせいで、正直まともに水滴を拭ってなんていられなかったのだ。30秒なんて絶対無理だ! と思いつつ、それでもなるだけ待たせないようにと頑張るところに彼の人柄のよさがあらわれている。
薄手のパーカーにぽたりぽたりと水が滴るほど、一歩の頭は濡れている。一歩の首にまかれたタオルをやや乱暴に奪った鷹村は、子犬にするようにわしゃわしゃと頭をふいてやった。「じ、自分でできますよぉ」と情けなくされるがままになっている一歩に、鷹村は「てめえはいちいちトロすぎんだよ。オレ様がわざわざやってやってんだから感謝しやがれ」とこぼした。仕上げとばかりに軽いげんこつをプレゼントしておく。あいたっとつぶやいてはたかれた箇所をなでさすっている一歩を後目に、鷹村はもう出入り口にまで移動していた。
さっきまでここにいたのに、すばやい。ぽかんとしている一歩の耳に意地悪そうな鷹村の呼び声が届いた。
「おい、はやく出てかねーと閉じ込めるぞぉ」
「わ、ちょっと! 待ってくださいよォ!」
人の悪い笑みを浮かべた鷹村が扉を閉めるフリをする。中をうかがう顔つきは温厚な一歩でも少し苛立つぐらい嫌な雰囲気をかもし出していた。あわてて右足を滑り込ませて、ぎりぎり間に合った隙間に手を差し入れると鷹村のわざとらしい舌打ちが頭上で聞こえた。もう何度目になるかわからない「何て人だ…!」という感想を胸で押し殺して一歩は鷹村にあけてくださいと頼みこんだ。意外にもすんなり扉は開く。
「なにやってんだ、お前。はやく帰ろーぜ」
「…鷹村さんがいじわるするから遅くなるんですよっ」
「ん? オレ様は何もしてねーだろが。お前が悪い、お前が」
荷物の入ったリュックを鷹村から受け取って、「そんなあ」と情けなく答えた。こういったやりとりはすでにデフォルトになっている。
とりとめのない世間話をしつつ二人並んで帰路につく。たいてい二人きりで帰る時、鷹村は一歩の家によってから自宅へ向かうのが習慣になっていた。
「鷹村さん、今日はこれから時間ありますか?」
「おう。特に予定は入ってないぜ」
「それならうちで夕飯食べてきませんか? 母さんもワンポも鷹村さんが来ると喜ぶんです」
鷹村の試合はまだしばらくはない。たしかにはめを外して暴飲暴食は出来ない稼業ではあるが、常に過酷な減量を強いられている訳ではない。一歩は今現在の鷹村がナチュラルウエイトである事を知っていたので誘ったのだ。
「今日のメシはなんだ」
「多分お味噌汁は豆腐とわかめです。今日はニシンとか期待できるんじゃないかなあ」
「うむ。それなら塩焼きだな」
じゃあ母さんに電話しといた方がいいかな? と提案する一歩に「いや、別になんだってうめぇから構わん」と鷹村がかえす。
以前こういうふうに献立について話し合っていたときに、青木達に「実はあいつらデキてるんじゃねえか」と疑われた事をふと思い出して、一歩は苦笑した。あの時はこの人の耳に入る前になんとかうやむやにできたけどうっかり聞かれた日には大変な目にあうとこだった。主に噂された自分か、言っていた青木あたりが確実に被害者になる。体格的には青木の方が鷹村に近いのでプロレス技もかけやすいだろうが、残念なことに彼は一歩ほど打たれ強くはない。つまり頑健さに定評のある一歩の方がながながと苦しめられる事になるのだ。
「何ニヤニヤしてんだ、気色悪ぃ」
さてはオレ様に気があるな! このホモめ! などと大笑いする鷹村に今更突っ込む体力もないので、一歩はさらりと受け流す。
「あ、いや。何でもないです。それより、今度試合のビデオ貸してもらってもいいですか?」
「おお。別に構やしねえけど。ナンだったらオレん家で見てくか」
「え、いいんですか! じゃあ都合のつく日にお邪魔させてもらいますね」
「やけに喜ぶじゃねーか」
やっぱりオレ様にまで狙い定めやがったのか。浮気すると宮田が怒るぞ、と真剣な表情で言ってのけた鷹村に、さすがに一歩はあきれた。リングの上では、ボクシングに対する姿勢は誰よりもストイックだというのに私生活があまりにも酷すぎる。
鷹村はそんな一歩の評価を知ってか知らずか、いまだに「恋人が宮田で千堂が愛人か。大変だな!」と下品な笑いにはまっていた。自分で言ってひとりで笑わないでくださいよという一歩のもっともらしい突っ込みすら、笑い続ける鷹村には聞こえない。
一歩は溜め息をついて立ち止まった。腹をかかえている鷹村は、10歩ほど先を行ってからようやく隣に一歩がいない事に気がついて振り返る。やや前屈みなのはゲラゲラ笑いすぎたせいだ。
「もう、あんまりそういう事言ってると鷹村さんのとこにご飯つくりに行きませんからね!」
鷹村が、それは困る! とぴたりと笑うのをやめたのは、一歩の手料理があんがいとイケると知っていたからである。懸命に一歩のご機嫌をうかがう鷹村がいるのも、それ以外の他意は今のところはなかった。