Teufel
じっとしてろ、と命令されるまま一歩は身じろぎせずに立っていた。包丁を持っていた手もそのまま固まってしまったかのように動かさない。ただ左手だけは食材からはなして肩よりも上の位置にひきあげた。手のひらは天井に向けてある。
鷹村はごく自然な動作で一歩の左手をつかむと、一歩がとめる間もなく人差し指を口に含んだ。なまあたたかい舌がねっとりと一歩の指先を包み込む。赤子が乳を求めるように数回吸い付かれてから、ようやく一歩は悲鳴をあげた。言葉にならない驚きは鷹村には一切伝わらないのか、それでも一歩の指はいいように舌で遊ばれている。
「う、あ、ちょ、な、何するんですかァ!」
「んだよ。動くなっつってんだろーが」
うっかり「はい」なんて言ってしまったがために一歩は二の句が継げなかった。ぴしゃりとはねつけられてしまったので、一歩は文句も言わずに大人しく鷹村の指示に従う他なかった。
そもそも事の経緯をかんがみるに、これは鷹村のせいではなかろうかと一歩は思う。
練習帰りや休みの日など一歩に時間の余裕があるときに太田荘によるようになってから、もうずいぶん経つ。自然な流れで台所を借りるようになって一歩の料理スキルは格段に上達していった。一歩自身はまだまだ母・寛子の腕前にはかなわないと思っているが、その実意外にも器用に包丁を扱っていた。最近では自分で味見した際に「あ、ちょっと美味しいかも」と思える事が増えてきていたのだ。レパートリーは鷹村が好むものばかりではあったが、その鷹村の好みがなかなかに厄介なのである。
丁度手のひらで豆腐を切っていた時だった。音もなく忍び寄ってきた鷹村がいきなり真後ろで声をかけてきたのは。
一歩は今からつくる夕飯の献立を考えていた。何から下準備しようか。食材があまったら明日も食べられるように何か作っておこうかなあ、などと料理に集中している人間が突然の事に驚かないはずがない。まして鷹村は今まで一度たりとも台所で作業をしている一歩を見にきた事がなかった。
驚いた拍子にうっかり指先を傷つけても不思議ではない。そもそも包丁を使っている人のそばに急によってくるなんて非常識だ。たまたま一歩が自分を少し切りつけただけですんだからいいものの、鷹村の足元にでも落ちていたらどうなっただろう。鷹村のことだから先ず避けそこなうことはないだろうが、それでも万が一ということもある。
それを、ドジなやつめと言わんばかりの表情で咎められても正直何かが間違っているとしか思えなかった。どことなく不平を顔に出し始めた一歩を、鷹村はその眼光ひとつで黙らせる。なんだか釈然としないまま、一歩は解放されるのを待った。手首をがっちりおさえられてしまっているので、左腕をおろすことすらままならない。
気恥ずかしさをはるかに飛び越えて背筋があわ立つ感触に、一歩はとうとう音をあげた。
「もう、はなしてくださいよ…」
ご飯の準備しなくちゃいけないんですからと続けると、鷹村はすうっと目を眇めた。
「…オレ様が悪ぃみたいに言いやがったな?」
水を得た魚だ。一歩を思う様からかう口実を得たり、という表情の鷹村がことさらゆっくりと一歩の指先から唇をはなした。嫌な予感が一歩の全身を緊張させる。まるで蛇に睨まれた蛙がごとく、一歩はひきつった笑顔のまま硬直した。処刑台の階段を一段一段のぼらされているような気分だった。
「お前、明日オレ様のスパーに付き合え」
鷹村の中での決定事項が一歩のメニューに書き加えられてしまった。悪魔のような台詞に一歩の顔がやや青ざめる。ボクシングでなら喜んでパートナーをつとめよう。しかしこの理不尽な男がそんなことを今一歩に言いつける筈がない。一歩は、数日前に青木が言っていたことを思い出した。プロレス技の実験体にされるに違いない。
「まあ、うまいメシをつくったら減刑を考えてやる」
という鷹村の言葉を信じて、一歩は我が身の安全のために料理するほかなかった。