Mutual infatuation
一歩は立ち耳をしきりに動かしながら、玄関口まで足を運んだ。そわそわと落ち着かない様子で、少し太めの差し尾もゆれている。
(まだかなあ。すぐるさん、今日はかえってくるっていってたけど)
仕事で忙しい彼のご主人様は何日か家をあける事もしばしばで、玄関先で物音がしたからといっても彼である確立は高くなかったりする。心なしか一歩が期待するたびに新聞配達のお兄さんだとか、お隣さんのドアノブをまわす音だったりするので、一歩がしょぼんと頭をさげることも多かった。それでも一歩はご主人様の帰宅を心待ちにしているので、毎回毎回音が聞こえるたびにこうして玄関にかけていく。
一歩は、卓の大きな手のひらで撫でられることが好きだった。愛犬とはべたべたとスキンシップをとらない人だけれど、家にいるときならば仕事の合間で忙しい時でも必ず一歩との時間をとってくれる。わかりやすく可愛がってはもらえなかったが、これ以上にないぐらい大切にしてもらっていることを、一歩は知っていた。
ぱたんぱたんと白い尾がフローリングをたたく。
扉の取っ手をじっと見つめる。
がちゃがちゃと鍵を差し込む音が聞こえてきたので、一歩はすっくと立ち上がった。尾は千切れんばかりにまわされているが、吼え声はひとつもたてない。むやみにほえてはいけないというご主人様の言いつけをしっかり守って、一歩は嬉しい気持ちを態度で示した。
ゆっくりとドアがひらく。
(すぐるさん、すぐるさん、すぐるさんっ! ボク、さみしかったんですよ)
「一歩…! こら、そんなに慌てるな」
うっかりわんっと一声あげてしまいそうだったので、一歩は扉をあけて入ってきたご主人様に飛びついた。
中型犬の一歩であっても結構な重さがあるため突進するように人にぶつかれば、女性や子供であればしりもちをつくくらいの力になる。
愛犬の熱烈なお出迎えに卓は片方の眉をきゅっとつりあげて、困ったような笑みを浮かべた。行儀が悪いぞとたしなめてから、一歩のあごをつかんで目線をあわせる。
仕立てのいいスーツの膝をついて、卓は一歩の頭を数度撫でた。
「ただいま。いいこにしていたか?」
優しいご主人様の手のひらに鼻面をおしつけるようにして一歩はないた。くぅんという甘えた声に卓の双眸が細められる。
一歩はご主人様が帰ってきたら、しっかりお留守番していたことや、お部屋にあるものでいたずらしなかった事をほめてもらおうと思っていたが、結局さみしかったさみしかったと繰り返すことしかできなかった。
「わかった、わかったから。さきにリビングに行っててくれ」
着替えたら遊んでやる、という言葉に一歩は目を輝かせて卓からはなれた。名残惜しそうに二度ほどちらちらとご主人様をうかがって、一歩はリビングにかけていく。
「まったく…いつまでも子どものままだな」
ちいさくため息を吐いた卓は、まんざらでもない表情で呟いた。
質のいいソファーに腰掛けてくつろぐ卓の足元で、一歩は伏せていた。ついさっき帰ってきたばかりの彼のご主人様は、持ち帰ってきた紙の束に視線をおとしている。速読している卓の邪魔をしないように、一歩は身体をちいさくまるめてぴすぴすとはなをならしていた。
卓はときおり思い出したように一歩の頭を撫ぜようと左手をさまよわせるので、そうした気配を察した一歩が自らその手のひらに頭をよせていった。遊んでやる、と言っておいて仕事をはじめてしまう卓に一歩が不平をこぼさないのは、彼が自分のご主人様を理解しているからである。卓の言う遊ぶは、こういうわずかなコミュニケーションであると、一歩は知っているのだ。
「…今日はこのぐらいにしておこう」
右手で目頭をおさえて、卓は書類をテーブルにほうる。ガラス細工のテーブルは高さこそないがそれなりに広いつくりになっているので、ばらさないよう紐でくくられた束をしっかりと受け止めた。
ばさばさというかすかな音に一歩の耳がぴくんと動く。小首を傾げるようにきょとんとしている一歩に、卓の手のひらがのばされた。
「明日はひさしぶりにドライブにでも行くか」
(ほんと? たのしみだなあ。どこに連れてってくれるんだろう)
猫の仔にするように一歩のあごをくすぐりながら卓は提案した。
散歩すらままならない二ヶ月、などがざらにあるご主人様の提案に一歩は彼の太腿に足をかけて喜んだ。一歩の尾が勢いよくゆれる。
「ずっと寂しい思いさせてたからな。一歩の好きな公園にも行こう」
嬉しいか、と卓は聞いた。一歩はこくこくと頷くように顔を上下する。
卓に代わって一歩の散歩をしてくれる彼の部下達のことも一歩は好いていたが、それでもやはり一番好きなのはご主人様なのだ。
(公園も? じゃあ一緒にボール遊びもしてくれますか?)
「お前の好きなおもちゃも持っていくよ。…ピンク色のボールでいいんだろ」
犬の気持ちをわかってくれるご主人様に、うっかりわんっと返事をして怒られても一歩の尾は元気よく右へ左へぱたぱたと揺れていたのは言うまでもない。