A triskelion 後編
「よ、酔いも醒めてまったわ…」
一歩の頭から足先までしげしげと見やって千堂がこぼした。
「あんまり見ないでくださいよォ」
とうとう耳朶まで色づかせた一歩は、ちびりちびりと水を飲んだ。着席してからすぐに運ばれてきたお冷は、すでにぬるくなっている。
宮田は、自分のコップを一歩の前に置くと、左目を眇めた。
「それで、説明してくれるんだろーな」
「う…。そ、それはその、ちょっと勇気が…」
「今更だ。さっさと言って楽になっちまえよ」
せや、と千堂が囃し立てた。リアクションがオーバーなだけに、宮田よりもショックを受けていそうな様子だったが、さすが大阪人とでも言うべきか、千堂はけろっとしている。
「うう。じ、実はですね。あの、耳がおちちゃったの、母さんにバレちゃって」
「そら、まあなア」
滅多に顔をあわせないような相手ならともかく、一緒に生活している家族なら違和感にも気づくだろう。まして嘘を吐く事が苦手そうな一歩だけに、母親の目は誤魔化せないに違いない。宮田はその光景が目に浮かぶようだった。大方あたふたとしていたに決まっている。
「そ、それで、相手を連れて来いって…」
「ワレ、その相手とまだ続いとるんか」
千堂が穏やかな口調で一歩にたずねると、一歩はほんの少し俯いてからいいえと答えた。心なしか切なそうに双眸を閉じたので、がらじゃないと思いつつ宮田は助け舟を出す。
「誰だって別れたりするだろ」
珍しい宮田の助勢に、一歩はますます幸薄そうな笑みを浮かべた。
「そうじゃなくて」
付き合ってるとか、そういう間柄でもないんです、と一歩が言い終わる前に千堂が「なんやて!」と叫んだ。
「おい、興奮するなよ」
「そないな事言っとられんっちゅうねん! 幕之内のこの性格やで、プロのおネーチャンはまずないやろッ!」
いまどき珍しい純情が服を着てボクサーになったような一歩が、高校生の時に玄人さんの世話になっているとは考え難い。カウンターに身をのりだすようにして千堂はそう力説した。握りこまれた拳に血管が浮いている。
自分も大概幕之内一歩に対して夢見がちな事を思っているが、こいつは筋金入りだと宮田は思った。つばがとぶほど興奮している千堂を横目に、身体をちいさくさせている一歩について考える。
宮田は、一歩と出会った頃を思い出していた。互いに高校生であった時だ。まるで昨日のことのように思い出せる学生服姿の一歩は、おぼこい顔をしている。
目を閉じればあの頃の、妙に懐っこい一歩がはにかんでいた。
あのぐらいのときに、こいつのみみはおちたのか。
「相手」
「え?」
「相手、誰だ」
詰問するような鋭さだった。カウンターテーブルに座る三人組の不穏な空気に、近くのテーブル席で騒いでいたサラリーマンたちがやや静かになる。ちらちらとこちらをうかがうような好奇心に満ちた視線は、千堂によって突っ返されていた。
今にも胸倉を掴んできそうな宮田に、一歩は目を泳がせる。そろりと千堂の方へと顔を向けると、彼は意地の悪い笑みを浮かべてただただ黙っていた。悪のりしやすい千堂は、いきなり不機嫌になった宮田を面白がっているようで、一歩の味方にはなってくれそうもない。
「おい、はやく答えろよ」
とろくせえヤツだなと宮田が続けたので、一歩は怪訝な顔をした。
「だ、だって、宮田くん、怒ってるじゃないかあ」
「…怒らせたいのかよ」
どうなんだ、と言わんばかりにずいと顔を寄せられて一歩は思わずのけぞった。右肩が千堂に受け止められる。
「せやなあ、早いとこゲロった方がええんちゃうか」
「千堂さんまで!」
千堂にがっしりと肩をつかまれ、宮田に迫られた一歩は観念したかのように溜め息をついたあと、ちいさく口を動かした。
嫌な予感がしながらも宮田は一歩の口元へ耳をぐっとよせていく。ひろえた音はわずかだったが、宮田は無言で一歩から離れた。
予想はしていたが、心当たりのあった人物の名前を当人から出されてしまうと、想像よりも強烈な衝撃があった。一歩は、たかむらさんと呟いたのだ。宮田も千堂も知ってる男の名前だ。
「あー。堪忍なあ」
つかんでいた肩を解放して、千堂が謝った。さんざん茶化していたことについてなのか、それとも一歩が逃げられないようにつかまえていたことについてなのかは、一歩にはわからなかった。
「もともと、相談したかった事だったし。良いですよ。ほら、鷹村さん、あんなじゃないですか。多分付き合ってるつもりもないだろうし、ボクから言うのも気がひけるといいますか。…でも母さんは相手の人と会いたいみたいで」
結構頑固なところがあって、ちょっと困ってたんです。宮田が一歩の前においたコップを両手でつかんで、一歩はとつとつと話す。
陽気な酒の席だったはずが湿っぽくなったのを感じて、宮田は内心で舌打ちした。
「だったら、間柴の妹なり何なりに頼めばいいだろ」
「間柴さんが許してくれませんよ。それに、久美さんはみみつきですから違うってわかっちゃいますし」
「他にあてはないんか?」
「うーん。言えば板垣くんの妹さんが協力してくれそうなんですけど」
彼女まだ未成年なので流石に、と一歩は言葉を濁した。
「そりゃあさすがになあ」
でしょう? と控えめに笑ってみせる一歩から視線を外して、宮田は「熱燗ください」とオーダーをいれた。少々おまたせしてしまうかもしれません、という店員の言葉にかまいませんと答える。
「宮田ァ、そんなん飲んで…ワイは知らんでえ」
酔いつぶれる心配ではなく、減量苦を余計悪化させそうな注文に、千堂は片方の眉をつりあげた。呆れたという顔つきで宮田を見る。
「うるせえよ。…おい、幕之内」
「は、はいッ!」
ぎらぎらした目つきでじろっと睨まれた一歩は、背筋を伸ばして返事を返した。ちいさな動物がするような仕草で宮田をうかがう目には、わずかな脅えがみてとれた。一歩の様子に宮田は顔を顰める。ますます首をすくめる一歩に、宮田は長い溜め息を吐いた。
「近いうちにオレが挨拶に行ってやるから、おふくろさんにそう伝えとけよ」
「え、ええええッ!?」
そんなんワイかて行ったるで! と叫んだ千堂の横っ面に宮田の右ストレートがめり込むまで後3秒。