Erste Liebe
「うおっ。寒ぃなあ」
太田荘からの帰り道、星明りと街灯に照らされた青木の呼気は白い。もうずいぶんと冷え込んできているこの季節は、冬と断言するにはまだほんの少しはやいように感じられたが、さすがに一部地域に雪が降っていることだけはある。露出している肌をきるような風が青木の横っ面を撫でていった。
マフラーしてくりゃ良かったと嘆いた木村は、モッズコートの襟を立てた。青木は両手に息を吹きかけて暖をとろうとしている。
せわしなく両手をすりあわせている青木が、にしてもよォ、と木村に声をかけた。肩を並べていた木村が前を向いたまま耳を傾けた。
「鷹村さん、ほんとに自覚がないのかねえ」
「あー。ああ、それな。多分気づいちゃいないんだろ」
唐突な切り出しに、木村は一瞬意味を読み取れなかったが、すぐに青木の真意を汲み取った。しばしの沈黙の後、ふたりは同じようなタイミングで溜め息を吐いた。
ふたりが話題にしているのは、鷹村守の恋についてだ。毎度毎度他人を巻き込んでむちゃを働く男だが、彼は人一倍情があつい。だいたいが女から言い寄ってきて関係を持つパターンだが、まれに鷹村自身がいれこむ事がある。粗暴そうな彼のことだから手荒なマネを強いて逃げられるに違いないと、真相を知る前のふたりは思っていた。
しかし蓋をあけてみれば、鷹村守という男は、愛してしまうとめっぽう優しくなるらしい。何番目かの女が木村と青木をつかまえて自慢げに話してきた時に知った事だった。鷹村は、どうも悪い女にばかり情をよせて、甘やかせすぎて逆にその女から「イメージが何か違った」という何とも切ない言葉とともに捨てられ続けてきた男だったのだ。
そんな鷹村が恋をしている。しかも、相手は鷹村が今付き合っている女じゃないことは確かだった。
「しっかしよォ。ちっと困ンだろ、さすがに」
「まあなぁ。自覚ないっつってもよ、オレらの事も考えてほしいわな」
青木と木村は顔を見合わせて、もう一度溜め息を吐いた。先ほどよりも悲壮感がたっぷりなのは言うまでもない。
別に変な女につかまえられず、普通の恋愛を楽しんでいてくれれば問題はない。しかし矛先が自分たちのよく知る人物だけに、青木も木村も無関係とは言えない事が悲しかった。
11月23日はふたりの後輩の誕生日だった。勤労感謝の日に生まれるなんてキャラを裏切らないやつだな! とからかいつつ、今日が丁度誕生日の前日ということもあり、青木と木村はひそかに祝ってやろうと思っていたのだ。元々いじめられっこなだけあって、一歩は家族以外に誕生日を祝ってもらった経験がなかった。友達や先輩との遊びにも慣れていない。
きっと大げさに喜んでくれるだろういたいけな後輩を思うと、もてなす側の自分たちまで楽しくなる。
善は急げと木村が一歩に対して本日の予定を聞いたところで、ロードワークから鷹村が帰ってきた。迷うことなく木村たちのところへやってきた鷹村は、何たくらんでやがると言わんばかりに青木と木村の首にがっちりと腕をまわした。ぎりぎりと締め上げられて、たまらず木村は声を出した。
「明日、一歩の誕生日なんスよ!」
続けて青木が補足する。
「んで俺らで祝ってやっかなって思ってただけなんだって!」
咳込みながらやっとの事で言い終えた青木の言葉で鷹村は拘束をゆるめた。げえげえ言いながらも青木はゴリラ腕力め、と悪態を吐いたので鷹村に殴られるはめになった。おろおろとしていた一歩が、流石に非難する。
しかし一歩の小言を無視して、鷹村はにやりと薄笑いを浮かべた。
「そォーいうことならオレ様ン家を特別にかしてやろう! ありがたく来い!」
こうして鶴の一声ならぬ鷹の一声で、一歩の誕生日を祝う会場が鷹村の部屋となったのだった。
会場が会場なだけに、一歩の誕生日を祝うという目的はすっかり宴会をするための手段になった。いつものように手ごろなスーパーで適当な食料品を買い込んで、狭い部屋に男四人で談笑する。アルコールも入っているため、暖房をつけない鷹村の部屋でもあたたかかった。ちょっと窮屈すぎる感は否めなかったが、当の本人である一歩が嬉しそうにしていたので、木村はほっとしていた。
バカ騒ぎする鷹村と青木のやりとりをながめつつ、木村は腕時計に視線を落とす。針は後2分ほどで日付をまたぐ。木村は青木と鷹村に目配せした後、左腕につけている時計を右手の人差し指でノックしてみせた。
「お、そろそろか」
鷹村が呟いた。青木の首をしめていた手のひらをぱっとはなして席につく。何事もなかったかのようなふるまいに青木のこめかみに青筋が浮かんだものの、青木はぐっと堪えて同じように腰をおろした。
なんだか不自然な二人に一歩が小首を傾げる。くっきり二重の瞼がぱちぱちと一歩の双眸を隠した。どうしたんですかと言いたげな仕草に、鷹村はすっと右目を眇めた。
やや置いてけぼりな一歩を三人が見つめる。
妙な雰囲気に一歩の顔が少し緊張した。彼の頬は飲酒による赤みが目立っていた。
パンッという乾いた音に一歩が一瞬首をすくませた。
「Happy Birthday ! 一歩ォ!」
ぎゅっと目をつむった一歩に向けて、クラッカーがならされた音だった。一歩の髪や肩に色とりどりの紙テープがかかっている。
一歩の隣でくつろいでいた木村がそれらの紙屑を軽く払いながら、一歩にちいさな紙袋を渡した。きょとんとしている一歩に苦笑しながら紙袋を握らせると、木村が口を開いた。
「急に思い立ったからそんなたいしたモンじゃないけどさ、さっきの買い物ん時に見つけたやつなんだ。俺らからの誕生日プレゼントって事で」
木村の台詞を奪うようにありがたく受け取れと言ったのは鷹村だった。青木は照れがあるのか鼻の頭をしきりにかいている。
一歩は数回瞬きをした後、うすい唇をわななかせた。
「あ、ありがとうございます!」
ようやく出てきた礼の返事に、鷹村は当然とばかりに胸を突き出した。あけてもいいんですか、と伺う一歩に、青木がはやく見てみろよと促す。
かすかに震える指先で一歩は紙袋を丁寧にあけていった。ちいさなピンク色のリボンをほどいて、口をあけた紙袋にそっと指をもぐりこませる。親指と人差し指で慎重につまんで、一歩はプレゼントを外に出した。
わあっとひかえめな歓声があがる。
一歩の手のひらには、白い犬を模したキーホルダーがあった。
「ワンポに似てるだろ?」
「はい。こことか、すごく似てるかも」
子供のようにはしゃぐ一歩は、犬のキーホルダーの鼻面をちょんと指で触った。その仕草が女の子のようだったので、木村は思わず笑みを深くした。
「それ見つけてきたの、鷹村さんなんだぜ」
こじんまりとした雑貨屋のさらに所狭しと商品の置かれた場所で探したらしい。青木がそんなことを言うので、一歩は大きな目を見開いて鷹村を凝視した。余計な事言ってんじゃねえよと、鷹村は青木を小突く。
「…まあ、気に入ってんなら良かったぜ」
「本当にありがとうございます。大事にしますね」
かわいいなあと一歩はキーホルダーに視線を落として呟いた。さきほど丁寧にひらいた紙袋を手にとって、キーホルダーを同じように慎重な手つきでしまい、ちいさめのスポーツバッグの中にいれる。ちまちまとした動きに、木村も青木も、なんだか年の離れた妹を持ったような気分にさせられた。
11月23日自体が祝日という事もあり、鴨川ジムも休みのためその後も宴会は続いた。最初のようなどんちゃん騒ぎではないにしろ、普段から行動をともにしている面子なので調子があう。主賓である一歩がうとうとと船をこぎだしても、三人の話は途切れなかった。
木村が時計をちらりと確認する。針は午前2時半をさしていた。さすがにこれ以上居座るのは家主である鷹村に悪い。そう考えた木村は、鷹村と青木の話が一通り終わったのを見計らって声をかけた。
「すいません、鷹村さん。こんな時間になっちまったんで、オレらそろそろ帰りますよ」
鷹村はそうかとだけ答えた。青木も木村に賛同して、ジップアップのダウンジャケットを羽織った。チェック柄のそれは青木が買うような洋服ではなさそうだったが、恋人からのプレゼントだと惚気ていた品だ。
あまり似合ってはいないが、青木が気にしていないので木村は言わなかった。
「おーい、一歩ォ」
すでに床に寝そべるようにして夢の中に入ってしまった一歩の肩に、木村の手がのびた。しかしそれを鷹村が制止する。
「寝せといてやれよ」
「おふくろさんが心配するんじゃないスかね?」
「母ちゃんにはオレが連絡してあンだよ」
だから寝せとけ、と鷹村は言った。普段よりも落ち着いた物言いと、何より穏やかな目つきに木村は瞠目した。鷹村は、慈しむような瞳で一歩を見つめている。見ている木村の方が気恥ずかしくなるほどの注視に、青木もどうしていいのか場の空気をもてあましていた。
「じゃあ一歩のこと、頼みます」
木村の言葉に頷いて、鷹村は手にした缶をテーブルに置いた。左手をひらひらと振っている。
「気ぃつけて帰れよ」
玄関で靴をはき、木村の後を追った青木の背中に暴君の珍しい一言がかかる。ぎょっとした青木はうっかり振り返ってしまった事を後悔した。
鷹村が、タオルケットに包んだ一歩を起こさないように抱き上げようとしていた。言葉を失った青木に構わず一歩を抱きしめて立ち上がる。俗に言うお姫様抱っこに、青木はがつんとした衝撃を後頭部に感じた。
とんでもないものを見てしまった青木の足は、その場から動かない。付き合いの長い青木や木村ですら見たことのない優しい表情に、危うく呼吸がとまりかけた。
「おい、青木ィ。いつまで待たせ」
んだよ、という言葉は木村の口から出てこなかった。先に扉の外へ出ていた木村だったが、あまりにも青木が出てこなかったので痺れを切らして中へ入ってきたのだ。そしてその瞬間、自分の目に飛び込んできた光景にわかりやすく驚いた。彼も絶句したのだ。あんぐりとあいた口はそのままだった。
急に冷たい風が室内へ入ってきたためか、それまで一歩を見つめていた鷹村がぱっと顔をあげた。
ふたりの全身に、緊張が走る。
「何してんだ?」
訝しげな表情で鷹村はふたりに言った。入るなら入るでドア閉めろと言いたげにふたりを見ている。木村も青木もアンタが何してんだと叫びたい自分をやっとの事でおさえつけた。
「あ…いや。じゃあ、帰ります」
木村の乾いた声に鷹村はおうと返事を返した。しっかと一歩を胸に抱いている。一歩がむずかるようにもぞもぞと動いたので、ますます胸に引き寄せた。寒いのか、鷹村の胸に頬を寄せている。
何とも言えない雰囲気に閉口した青木と木村は、そのまま太田荘を後にしたのだ。
「ところでよ、一歩の方はどうなんだよ」
寒さに鼻の頭を赤くしている青木が呟いた。
一歩には間柴久美がいる。傍から見ていてもいい雰囲気を築いているが、いかんせん積極性にかける一歩のせいでもどかしい関係のまま進展がない。後は久美の方からアクションをとるしかないような気もするが、奥ゆかしい女性なだけに、難しいように思われた。木村は曖昧に答える。
「…鷹村さんが気づいちまったらまず一歩は久美ちゃんとくっつかないだろうな」
溜め息まじりの返答に、青木は頷いた。鷹村は自分の行動のおかしさに気がついていないだけで、いざとなれば行動力も決断力も段違いだ。まごついてる一歩を丸め込む事など赤子の手を捻るより簡単だろう。自分の想像があながち外れでもないことに、青木と木村は溜め息をつくしかなかった。
「トミ子が」
歩道の小石を軽く蹴飛ばして、青木が話す。予想外の切り出しに木村は黙って続きを待った。
「一歩の事気に入っててよォ。最初はオレもちっと面白くなかったんだけどよ。あんまり可愛い可愛いって言うもんだから、聞いた事があんだよ。したらトミ子のやつ、弟とか子供みたいで好きだって」
なるほど、と木村は思った。母性の強そうなトミ子らしい。
「だからさ、オレもなんつーか一歩のヤツ、かわいいんだよなァ」
変な意味じゃねーんだけどと青木が続けた。木村は確かにと頷く。
幕之内一歩という青年は、自分たちが忘れてしまったものをもっている。ともすれば少年のままのようなおぼっこさが、どこか構いたくなる雰囲気をつくりだすのかもしれない。打てば響くようにからかえば面白い反応が返ってくる。彼の愚直なまでに素直なところを、木村も気に入っていた。
「うまく言えねえけど、あんま泣かせてほしくねーんだわ」
「オレもさ、正直、鷹村さんと一歩が幸せになれりゃあそれでいい」
多分そうそううまくはまとまらないと思うけどな、と付け加えてそれきり木村は口を閉じた。青木は自分で蹴飛ばした小石が側溝へ転がっていくのを横目に、思いをめぐらせていた。
鷹村はよくよく面倒で厄介な相手にばかり好意をよせる。なんとか成就させてやりたい気もするが、こればかりは何ともしようがなかった。
心配性の兄貴分たちは、不憫な後輩を思ってはらはら見守ることしかできない。
どちらの味方になれば良いのかすら容易に考え付かないほど複雑すぎる色恋沙汰に、青木も木村もひたすら悶々と頭を抱え込むはめになった。
後日、ふたりの杞憂を晴らすかのように円満お付き合い報告を受けるのは、また別のお話しである。