Ist er Liebhaber?
キスをしたのなんて生まれてはじめてだった。
一歩にも、学生時代にあこがれた女性はいた。中学のときは音楽の先生で、高校生になってからはクラスメートの女の子だった。けれど性的なニュアンスを含めていたわけではなく、どちらかといえば学校で一目見れたら満足できてしまうような、言葉を交わすだけで気恥ずかしくてまともに目をみられないような、その程度のものだった。
そんな有様だったので、勿論と言うべきか一歩は女性に男として見てもらった経験がない。小学生の男の子の延長線上に一歩がいるので、一足先にオトナになる中学生や高校生の女の子からしてみれば物足りなかったのだろう。女性として成熟している大人からしても、おさなくて可愛らしい少年でしかなかった筈だ。
一歩自身、女性たちから自分がどう見られているのかを気にしたことがなかったので、当然恋人だとか好きな人だとかができたためしはなかった。
人よりも少し歩みが遅いだけで、そのうち手をつないで一緒に歩いたり、キスをしたり、ずっと傍にいたくなる人が現れるだろうなと悠長にかまえていたのだ。
それが、こんなふうに掠め取られるようにして奪われるなんて考えもしなかった。
一歩は目を白黒させて、目の前にいる鷹村を見た。鷹村は、さも当然と言うように一歩の唇を啄ばんでくる。
トレードマークのトサカが少し乱れて、前髪がほつれていた。彫りの深い端整な顔が近づいては、すこしはなれて、角度を変えてまた近づいてくる。鼻が高くて男前だ、などと感心している場合ではなかった。
はっとして、はじかれたように一歩は鷹村の顔を両手でぐいっと遠ざけた。心臓がばくばくとうるさかったが、そんなことよりも気にすべき点がたくさんある。
鷹村は、邪魔するなという顔をした。一歩の手によって阻まれている事を不服としているのか、眉間に皺をよせていた。迫力のある表情に、一歩の腰がくだける。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「待てねえーな」
言うがはやいか鷹村は一歩の両手首をがっちりと自分の両手で押さえ込んで、力ずくで唇を奪いにきた。引き結んでいる一歩の唇に舌を這わせて侵入の機会を伺っている。一歩は、ライオンに顔を舐められている気分になった。逃げようとして頭を振ると、そのたびに鷹村の指が肌に食い込んでくる。痛みに抵抗が止むのを見計らって鷹村は舌を差し入れた。鷹村は、一歩の歯列をなぞり、上顎のうらを蛇のように動き回った。
組み付くようにぐいぐいと身体をおされるせいで、一歩はのけぞった。座ったままだったので足をつかって逃げることすらままならなかった。
背中が壁に押し付けられる。顎があがっているせいで後頭部をもこすりつけるはめになった。
ひとしきり堪能した鷹村が一歩を両手を解放した。ぷはっと息を吐いた一歩は、震える手で自分の口元を拭った。
「な、なに、するんですかッ!」
「なにってよう」
キスじゃねえの、と鷹村は言った。悪びれもせずに言い放った。あまりにもな対応に、一歩は目を見張った。
「そ、そーいうのは、こここ恋人とかとすることでしょうッ!?」
一生懸命に異議を申し立てる一歩に鷹村があアん? と聞き返してきた。咄嗟に身の危険を察知した一歩は、なるべく鷹村から距離をとるべく、彼の対角線上にずりずりと引き下がった。
間にテーブルをはさんでいるとはいえ、安心はできない。いざとなれば鷹村はそんなもの平気で飛び越えてくるだろう。
鷹村は、とびかかる寸前の猫のように上体をぐぐっとテーブルに近づけ、一歩を睨みつけていた。
「懇切丁寧に説明してやんなきゃ一歩くんはわかんねーとでも言う気か」
どうなんだ、と鷹村が一歩を威圧する。困惑したままの一歩は、鷹村の望んだ反応を返せなかった。
「んじゃーよ、親切なオレ様がいくつか質問してやっからよ。答えろや」
鷹村が、バンッとテーブルに手のひらを叩きつけた。威圧的な鷹村に、思わずはいっと返事をしてしまう。脅えたうさぎのように手足をひきよせて小さくなろうとする一歩に、鷹村の眼光は逆効果だった。おそるおそる鷹村を見る一歩に、鷹村は苛立ちがより大きくなったことを感じた。
「今日は何の日で、ここはどこで、誰と誰が何してた?」
一言一言噛みしめるような言い方だった。
何を言われるのかと内心でびくついていた一歩は、とてもシンプルな質問に拍子抜けした。ほんのすこし肩の力を抜いて答える。
「今日はボクの誕生日で、鷹村さんの部屋で、鷹村さんとボクが、えっと、お酒を飲んでいました」
鷹村が区切ったところにあわせて一歩がゆっくりと話し終えると、鷹村は無言で双眸を細めた。一歩はほんの少し手のひらに汗をかいていた。
何がきっかけで怒るのかイマイチ把握できない鷹村相手に口をきくのは、爆弾処理班になったようで、ひどく神経をすり減らすのだ。一歩は、鷹村の言葉を待った。
「おう。で、だ。物覚えの悪い一歩くんのためにオレ様が予備知識として情報をくれてやろう」
お前が好きだッつって告白して、ソイツの誕生日にオレ様の部屋によんだらソイツはホイホイついてきました。一般的に考えてどういう事なのか考えてみろ、と鷹村は一息で言い切った。
あっ、と呟いたきり、一歩はまともに言葉を紡げなかった。鷹村は相変わらずギラギラした目つきで一歩を見据えていた。それでも、うろたえている一歩の二の句を待っている。
ピンと張り詰めた空気が、一歩にはたまらなかった。
「す、スミマセンでした」
顔をこわばらせて、ようやく口を開いた一歩は謝罪をするだけで手一杯だった。
鷹村のこめかみがぴくりと動く。
「スミマセンだあ? 冗談じゃねえーよ。じゃあ何か? オラァ勘違いした挙句後輩を襲った悪者か?」
鷹村の声が徐々に大きくなっていく。低く唸っていたうちがはなだった。激しく怒鳴るように語尾を荒げる鷹村に、一歩はどうしていいのかわからなかった。とにかく鷹村が誤解したようだったので、それを何とか説明するために口をひらく。
「あ、あの」
「んだよ!」
「ち、違うんです…! スミマセンっていうの、告白の返事とかじゃなくて、し、しつれーな事しちゃったなってことで…!」
「おう。じゃあ返事はいつくれるんだ?」
しどろもどろな一歩の話しを制止して、鷹村が凄む。ひっと、悲鳴をあげた一歩に、鷹村はことさらいやらしい顔で笑った。
ん? と穏やかに問いただす姿に、一歩の背骨にそって冷や汗がつたっていく。
「き、嫌いじゃないです」
嘘ではなかった。鷹村の事は尊敬しているし、圧倒的なボクシングスタイルも並外れた精神力も、一歩の憧れだ。むしろ好きだと言ってもいい。
「じゃあ問題ねえだろーが」
鷹村は、何で逃げるとばかりにじろりと一瞥した。一歩はひきよせた足の指までもまるめてちぢこまろうとした。鷹村が、テーブルの上に右足をのせて身をのり出す。細い四本足が鷹村の体重を受けて軋んだ。
「ま、待ってください…! あの、こ、心の準備ってものが必要だし、第一こんなにすぐなのは」
ボク、という言葉ごと奪うように鷹村は一歩の唇をふさいだ。噛み付くような口付けに、互いの歯がぶつかりあって音を立てた。厚みのある舌が、一歩の奥歯をさわる。
息継ぎもできない一歩の息があがる。息苦しさに、一歩の眦には涙がたまっていた。鷹村は、ゆっくりと一歩からはなれて、一歩の頬にそえた両手でぬぐってやった。充血した唇と瞳が、妙に色っぽい。
「待つ気はねえって、言ってんだろ…?」
鷹村が、あまりにも余裕のない顔をするので、一歩は瞼を閉じる事しかできなかった。