Short*

Bitte gib mir noch eine Chance.

 まるで今しかないとでも言うように、鷹村は一歩に触れることがあった。それは練習後に二人きりになったときだったり、太田荘でボクシングの試合を見せてもらっているときだったり、その時々なので鷹村がそうする場所はまちまちだった。ただ普段の悪ふざけとは一線を画すような指先が、とうとつに一歩を求めてくる。
 一歩は、まさかと思った。自分の思い違いであって欲しいと願った。
 ただの先輩と後輩じゃあいけないのだろうか。一歩が垣間見る鷹村の顔は一瞬男のものになる。一歩にはそれがなにより恐ろしかった。


 西日が差し込んでいるジムの中に、練習生は見当たらない。青木と木村ももう帰路についている。ジムに残っているのは、この後ミーティングを行うトレーナー陣営だけだ。それも、おそらくは会長室で行われるので、彼らが練習生のロッカーに顔を出す事はない。
 一歩は、ロッカーで手早く荷物をまとめて帰ろうとした。できれば鷹村とは二人きりで会いたくなかった。
 たいして重さのないスポーツバッグをかついで、一歩は出入り口へと急ぐ。
 扉に手をかけようとしたところで、ドアを一枚はさんだ向こう側の人物に先をこされてしまった。一歩はわずかに後ずさった。一歩の肩からすべりおちたスポーツバッグがどさりと音をたてた。
 鷹村が、後ろ手に扉を閉める。
 目をあわせられない一歩は、俯いたままお疲れ様ですとだけ言った。鷹村は鼻で笑う。
「ンなに脅えてンじゃねえーよ」
 ニヒルな笑いを貼り付けた鷹村の表情に、一歩は身じろぎひとつできなくなった。鷹村の手が、一歩の強張った頬にのびる。一歩がひくりと肩をすくめたので、鷹村は一瞬躊躇するように指先を動かした。そしてそのまま、何事もなかったかのように一歩の頬に触れた。
 喉が干上がってしまったように、一歩は声が出せなかった。乾いた唇がぴたりとくっついて、容易には離れそうになかった。
 鷹村は、息をのんだままかたまってしまった一歩をずっと見ている。
「とって喰ったりしねえって。ちったあ力抜けよな」
 鷹村さん、と一歩は呼ぼうとした。けれどやっぱり縫い付けられたように唇は動かない。喉仏が意味もなく上下しただけだった。
 まばたきすらできない一歩は、鷹村を見上げた。不敵にあげられた口角はいつもの彼と大差ない。自信に満ち溢れている鷹村がよくやる癖のようなものだ。不遜で、暴慢な鷹村らしい笑い方だ。しかし鷹村の視線は雄弁だった。
 オンナに向けるべき目を、鷹村は一歩に向けていた。望めばどんな女性だって好きに扱えるだろうに、どうして一歩にそんな顔を見せるのか一歩にはわからなかった。
 いつからそんな目をされていたのか、いつからそんな目に自分がうつっていたのかも一歩は知らない。
 鷹村が熱烈なまでの流し目を向けるたびに、一歩は困惑してばかりだった。
「泣きそうになってんじゃねェって」
 鷹村の指先が、すうっと一歩の目許へとすべっていった。あまりにも優しい体温に、鷹村の顔が涙で滲んでいった。そんなふうにするから泣きたくなるんですよと一歩は言いたくなった。
 一度でも瞼を閉じてしまえばこぼれてしまいそうなほどのため涙で鷹村が見えなくなっていく。
 鷹村は、泣くなと言った。一歩は嗚咽を押し殺すことで精一杯だった。



 黙ったまま、鷹村は一歩の涙をすくいとる。なんとなくどんな顔をしているのか想像がついて、一歩はたえられなくなった。鷹村の右手を両手でやんわりとつかまえる。鷹村は、やはり黙ったままだった。
「たかむらさん」
「おう」
「ボク、鷹村さんのこと、好きです」
 一言一言くぎるように、一歩ははっきり口にした。鷹村はかすかに呼吸をつまらせた。
「あなたがいなかったらボクは、今頃いじめられたまま学校を卒業して、釣り船屋をついでいたかもしれない。もしかしたら大学に進学して、やっぱりいじめられて、嫌な思いとか、してたかもしれない」
 ときどきしゃくりあげるようにして、一歩は続ける。
「ボクシングにも出会えなくて、きっと今ほどボクは自分のことを好きになれなかった。あのとき助けてもらえて、ボクシングを教えてもらえて、鷹村さんに会えて本当に良かった」
 饒舌ではない一歩が、たどたどしく口にした。鷹村は、そうかとだけ呟いた。

「だからボクにとって、鷹村さんは大事な人で」
「わかってる」
 落ち着いた声だ。頷く鷹村は一歩が伝えたいことを分かっているようだった。一歩につかまれていた腕を静かにおろす。一歩は、置き場のない手を自分の胸元で握り締めた。右手で洋服の生地をかきあつめるようにして、左手もその右手の上へと重ねている。それは祈りにも似ていた。
「本当に、大好きなんです」
 一歩は一拍おいて、震える唇を動かした。ちいさく紡がれた、だけど、という言葉を鷹村は静かにきいていた。
「だけど、これは恋じゃないんです」
 鷹村を好きなのは、人としてだ。同じジムにいることを誇りに思っている。嘘偽りのない真摯な気持ちで、一歩は鷹村を尊敬していた。ただそれはあくまでも同性への憧れであって、恋愛の対象ではなかった。
 異性を見るように、鷹村を見ることはできなかった。まして女性が男性に感じるような気持ちもわかなかった。
 一歩は、鷹村が自分のことを好いていることに、今まで目をそむけてきた。何を口にしていいか見当がつかなかったからだ。
「だから、ボクは鷹村さんの気持ちにこたえることができません」
 鷹村と目をあわせることができない一歩は、俯いている。鷹村の猛禽類のような荒々しい瞳の奥には、悲愴な色があるに違いなかった。
 鷹村が向ける視線は、一歩にお前が欲しいと訴えながら、望みがないならはやく切り捨ててくれと懇願してさえいるようだった。鷹村に、そんな目をさせるのが一歩には一番たえられなかった。

 鷹村と二人きりになりたくないのは、何も彼の好意を受け取れないからだけではない。一歩のたった一言で関係が崩れてしまうだろう事が、何もかも捨ててもいいと見つめてくる鷹村の情熱にこたえられない自分が、嫌でたまらなかったのだ。
 都合の良い話だと受け取られるかもしれないが、一歩としては、ずっと膠着したままで良かったのだ。こんな展開は望んでいなかった。
 それでもこうしてあらためて断りを入れたのは、自分のためだった。
 オンナを喰らうような獣の目は、例え鷹村のものであろうと、一歩にとっては恐怖の対象でしかなかった。
「もういい。わかってっから泣き止めよ」
「す、みません。ごめんなさ」
「それ以上謝んな。ったく、フラれてんのはこっちだっつーのによォ」
 まったくお前はひでえヤツだな! と笑いながら鷹村は一歩にタオルを手渡した。鷹村の首にかけられていたものだったので、涙を拭うとかすかに鷹村のにおいがした。鼻腔をくすぐる汗のにおいに、一歩は泣きたくなった。


「怖がらせちまって悪かったな」
 否定はできなかった。一歩は大人しく、タオルで顔を隠している。小刻みにゆれる指先を叱咤して、タオルを顔に押し付けた。
「まあスッキリさせちまいたかったからよ、ちっと気合入れすぎちまったかもしんねえな」
 鷹村はなるべくやわらかい口調で話そうとしているようだった。
 こんなときにそんなふうに気をつかうのはやめて欲しいとは、一歩には言えなかった。


[ end ]



掲載日2010年12月01日