Love is blind
恋人という関係になる前から何度も招かれ訪れた部屋だというのに、一歩はどうにも落ち着くことができなかった。そわそわと体を動かしてはきょろきょろと部屋中へ視線を彷徨わせる。困り顔を上げ下げし、意味もなく忙しない動きを繰り返していた。
鷹村は、そうした一歩の様子をしばらく眺めていた。しかしとうとう堪えきれなくなったのか腹を抱えてふきだした。押し殺そうとした笑い声が喉のあたりでくぐもった音にかわる。
そのまま寝そべって背中や肩を震わせている鷹村に、一歩は呆気にとられたのかぽかんとした顔をみせた。ついでようやっと合点がいったのか、顔を真っ赤にそめて唇をわなわなとさせた。
「わ、笑わなくたっていいじゃないですか!」
「悪ィ悪ィ。あんまりにもあんまりなんでな。ついツボにはいっちまった」
ちゃめっ気のある言い方をして仰向けに寝転がった鷹村に、一歩は正座したままちいさく呟いた。だからってひどいですよおという泣き言めいた口ぶりに、鷹村は器用にも左の眉だけをきゅっとつりあげてみせた。
「ンなに緊張すっことねえだろーがよ。オレ様ン部屋ぐれえなんべんも来てるじゃねーか」
「そ、それはそうなんですけど…。でも、あの。前とは、その…状況が全然違いますし…」
耳朶までほんのりと赤みを帯びた一歩が恥ずかしそうにうつむいた。普段からはっきりと自分の考えを述べるようなタイプではないが、今日はいつにもまして歯切れの悪い物言いとなった。
太腿の上でぎゅっと握った両手がかすかにふるえている。
鷹村の住んでいる太田荘は独身向けのアパートのため部屋数はかなり少ない。そのため寝室などという上等なものは存在しないため、普段から布団を敷く際には散らかった居間を利用している。
居間にあるものと言えば、ページをひらいたまま放り出されている週刊誌や洗濯すらまともにされていないような山積みの衣服である。それらに埋もれるようにして、トレーニング用の鉄アレイなども点在していた。
ところどころに空のペットボトルや紙くずが顔をのぞかせているので、ちいさめのごみ箱はすでに屑かごとしての用途をはたしていないのではないかと思われる有様だった。脚を折りたためるようにつくられたちゃぶ台の上でも、倒れたコップや飲みかけの水が家主に忘れられているような状態でいることが多かった。
さすがに一歩が訪れるようになってからはそれなりに手をいれているため、雑誌や衣服などはある程度決まった位置に置くようにはなったものの、それでも寝泊りする際に片付ける必要があるのは相変わらずのことだった。
片付けるといっても、鷹村ではなく一歩が自主的に簡単な掃除をするということである。
しかし今日は普段とは違い、一歩が玄関に足を踏み入れたときにはすでにあらかたの準備は整っていた。整頓された居間には、二組の布団がすきまなく敷かれていたのだ。
ふたりが今いるのは、その布団の上ということになる。
ジムの先輩と後輩という間柄ではなくなって、もう一年が経とうとしていた。その間に体の関係を持ったことは一度もない。相手があの鷹村だということを知られれば、周囲にはよくもったと言われるだろう。
基本的に女好きである鷹村は、昔から手がはやい。一歩自身は鷹村の過去にあったことを知らないのだが、少なくとも一歩よりも鷹村との付き合いの長い青木や木村が苦言を呈することがあったと聞いたことぐらいはあった。宮田からもそれとなく、前のオンナの話しをされたことがある。
それらから想像するに、鷹村は女性に対してなかなかに無体なことを強いる男だった。
目移りすることはあたりまえ、浮気は男の甲斐性であるという奔放なスタンスには、一歩も賛同しかねていた。しかしそういったある意味で雄らしい男である鷹村が、性行為がないというのにも関わらず余所見をせずに自分を好いてくれていることに、一歩は感謝すら覚えていた。しかしそれよりも罪の意識の方が大きかった。
いくら晩生な一歩といえども、れっきとした男性である。好きな相手と一緒にいれば、次は触れ合いたいという欲求が生まれることぐらい知っていた。
手を握ればキスもしたくなる。キスをすればセックスへの期待感が増す。今までにそういった経験や相手がいなかった一歩にも、鷹村をもとめる気持ちはたしかにあった。節くれだった武骨な指先がふれた肌に、熱のうずきを覚えた事も少なくはない。
しかし受け入れるという行為に恐怖を感じずにはいられなかったのだ。
男と女がどうするのかぐらい、一歩にも見当がつく。しかし男同士というのはまるきり想像の範疇になかった。もともと同性愛者であるというわけでもないので、具体的にどんなことをするのかされるのか、漠然ともしない。
鷹村もそうした一歩の心情をなんとなく察していたようだった。ここ一年、鷹村はそういった行為をほのめかすようなことを一切口にしなかった。それを申し訳ないと思いつつも、一歩はずっと鷹村に甘えていた。
恋仲であるなら必ずといっていいほど付きまとってくる性行為というものを、ずっと避けていたのである。
だからこそ、ジムでの練習があがった後にいつもとは違う雰囲気をもっていた鷹村から声をかけられた瞬間、それなりの覚悟をしたのだ。
今日は泊まっていくンだろという誘いに、「はい」と答えるだけの単純なやりとりにはそうした隠れた事情があった。すくなくとも一歩にとって、断りを入れなかったことは今まで浸ってばかりだった鷹村の愛情に報いることでもあった。
腹筋をつかってひょいと起き上がってみせた鷹村が照明を消した。視線を落とせばうっすらとした闇の中で、煎餅布団の上でも足を崩さずに律儀に正座をしている一歩がいる。俯いて身体を縮めているため鷹村から一歩の表情をうかがうことはできない。ふるえながらも逃げずに大人しく座っていることと、いったん自宅へ戻った際にかるくシャワーを浴びてきたことがわかる半乾きの髪で、どういった意図で鷹村が一歩を部屋へと招いたのかは理解しているようにみえた。
先ほどまで寝そべっていた布団の上に腰をおろして、鷹村はがらにもなく自分の行動を思い起こしていた。
気に入ったオンナにすら、ここまでの待遇で迎えたことがなかった。
正直に言ってしまえば先を考えずに生きる類の男であるので、容姿が自分の好みであればそれがどんなオンナでも構わなかった。すりよってくる女は掃いて捨てるほどいたし、欲しいと思った女はすこし本気になれば手に入れることができた。俗な言い方をすればオンナに不自由したためしなどなかったのだ。
それはボクシングと出会ってからも変わらなかった。打ち込むものができても異性関係で誠実さを持つことのなかった鷹村にとって、付き合うということはすなわち性処理がスムーズになるということだった。
「そうガチガチになられっと、さすがに手が出しづれえな」
鷹村のつぶやきに、一歩の肩口が面白いほど大げさにとびはねた。おずおずとした動作で一歩の顔があがる。
一歩の目には数回まばたきをすればこぼれおちるような水のまくがはっていた。衣擦れの音にかき消されてしまいそうなちいさな声が鷹村の鼓膜をうつ。唇ともどもふるえた「すみません」という一言でこれまで押さえ込んできた情欲に火がともったことを、鷹村自身がよくわかっていた。
鷹村は、左手をのばして一歩の右腕をつかんだ。そのまま即座に自分の方へと引っ張りよせる。緊張で強張った身体は思いのほか軽く、簡単に胸元へまねくことができた。
「いまから真っ赤になってっとユデダコになっちまうぜ」
「か、からかわないでくださ」
一歩が言葉の途中で息をのんだ。鷹村によって、すうっと身体を横にされたからだった。
一歩をひきよせた左手でやんわりと腰をつかみ、一歩が瞼を閉じた一瞬の間に右腕を背中にまわしてシーツの海へとゆっくり沈めていく。手馴れた動作も見上げる鷹村の顔も成熟した雄のものだったので、一歩は目を泳がせた。強引に押さえ込まれたわけでもないのに、身体中が痺れて指先さえもうまく動かせない。それは自分の身体ではなく、何か別のものにでも変わってしまったような、そういった錯覚を一歩にもたらした。
言葉もなく、ただただ目を見開いている一歩に、鷹村は自分の下唇を舐めた。大型の肉食獣がはなづらを湿らせるのに似た仕草だった。一歩の身体がますますかたくなっていく。
背を支えていた腕をするりとぬきとって、鷹村はそのまま一歩の左手をさらった。もちあげた手首に唇をはわせた。鷹村の身体は、こもりはじめた熱の放出をもうずっと待っている。
じりじりと焼け付く心臓が、一歩という獲物を前に歓喜にふるえていた。
「…どーいうことされっか、わかって来てンだよなァ。一歩」
月明かりが差し込んでいる。ぼんやりとした室内の暗さに慣れてしまった一歩の目には、獣のような体勢で自分を組み敷いている鷹村がよく見えた。
一歩の喉ぼねが上下する。
静かに頷いた一歩の頬を鷹村の両手がつつみこんだ。厚みのある唇が、一歩の額におりてくる。親が子を寝かしつけるようなキスを数回繰り返したあと、鷹村は一歩の唇をついばんだ。
一度目は厳かに、二度目は確かめるように唇を重ね合わせる。一歩の体中に走っている緊張がやわらぐまで鷹村は遊びのような口付けを続けた。唇が離れる際には、鷹村という男がさせているとは到底思えない、小鳥が囀るような音が時折生まれていた。
鷹村がそうしてしばらくの間興じていると、はなで呼吸をするタイミングがつかめない一歩の息がわずかにあがりはじめる。んんっというくぐもった声を合図に、ちいさく開かれた一歩の口に鷹村が舌先をねじ込んだ。肉厚な舌が歯列をたどり、口腔の奥に逃げている一歩の舌を強引に絡めとる。
驚いて鷹村を突き飛ばそうとした一歩の両手をおさえこんで、シーツを蹴る足の間に素早く身体をすべりこませた。一歩のかすかな抵抗が、鷹村を煽る。
一歩の身体にぐっと密着した鷹村が、左手のみで一歩の両手をまとめあげた。手首のあたりを握り締めたため、一歩の指が鷹村を阻むことは出来ない。布団から飛び出してぬいとめられた一歩の指先がびくりとひきつった。
唇は、まだはなさない。
鷹村の右手が一歩の上着の中へとすべりこんだ途端、一歩の背がやや弓形になる。その隙をついて、鷹村は一歩のシャツを一気にたくし上げた。
暗がりで肉のうすい引き締まった腹があらわになる。一歩の呼吸にあわせてかすかに上下する胸に手を這わせ、鷹村はようやく顔をはなした。荒い呼吸の音だけが部屋にとけこんでいく。
肌からじかに伝わる熱に、鷹村も一歩もうかされつつあった。
息を整えようとする一歩をよそに、鷹村が首筋にはなをうずめた。か細い制止の声にも構わず、ともすれば乱暴に白い首に食らいつく。汗ばんだ皮膚の感触を舌で味わい、弾力を確かめるように歯をたてる。噛み付いては吸い、吸い付いては歯型をたどるように舌をつかう。
一歩はそのたびに尾骨から一直線にあがってくるびりびりとした得体の知れない感覚に下唇を噛みしめた。つま先から、ぞわりと悪寒が走る。産毛が逆立つほどぞっとするそれを、視覚なのか嗅覚なのか、はたまた触覚なのか、それともまったく別の何かで認知しているのか。それさえも一歩にはよくわからなかった。
顔をあげた鷹村が、おもむろに息も絶え絶えな様子の一歩を見下ろした。トレードマークのトサカがほつれ、長めの前髪が目元にかかっている。その隙間から一歩をうかがう鷹村の目は普段よりも獣染みていた。
照準は一歩に定められている。射抜かれた一歩の目からはらはらと涙がこぼれ落ちた。
抱かれるのではなく、犯される。自分の上に覆いかぶさる男に捕食されるのだと漠然と感じ取ったからだった。性急な鷹村によって頭の片隅へと流されていた恐怖が、あらためて一歩の身体に刃をつきたてる。
「…やめとくか」
荒く浅い呼吸を繰り返す一歩に鷹村がささやいた。いつもよりも落ち着いた低い声に、一歩が慌てて首をふった。
「だ、大丈夫です。大丈夫だから」
続けてくださいと懇願するように口を動かした。静かに様子を見ている鷹村は、ぴたりとあわさった肌で一歩の身体のふるえが快感からではなく、行為への恐怖からくるものに変わってしまったことに気がついていた。
「…ほ、ほんとうに、だいじょ、ぶ、です、から」
嗚咽交じりの声は細い。言葉は痛々しくひびいていく。
鷹村は、とめどなくこぼれはじめた涙を舌ですくいとった。突然のことに一歩がびくりと首をすくめる。
鷹村も一歩も、すでに退っ引きならないほどはりつめている。
男の性は吐き出すことにある。一度熱がこもってしまえば後はどう吐き出すのか、そればかりが脳を占拠するものだ。性に淡白なたちの一歩でも、時間をおいて高ぶりを落ち着かせるもどかしさがどれほど辛い仕打ちであるのか、簡単に察しがついた。
一年ほど待たせている。罪悪感に背をおされ、一歩は状況に自分の気持ちがついていかないことを無視していた。それに気がつかないほど鷹村も急いてはいない。愛していなければとうに捨てている。性欲で先にすすんでしまうことよりも、情で満たされたい。そう思えるくらいには、鷹村は一歩を好いていた。
「我慢すんなよ。オラァ意外と気ィなげえんだからよ」
やんわりと目を細めて、穏やかな表情をうかべた鷹村が一歩のはなの頭にかるく唇をおとす。
「ご、ごめんなさっ、い…ッ」
「そー泣くなよ。オレ様がいじめてるみてえじゃねーか」
「ち、違…」
申し訳なさと怖さとにぐちゃぐちゃにかき乱された一歩が言葉をつまらせる。しゃくりあげながら懸命に謝る姿に、鷹村は苦笑をこぼした。一歩の髪を手のひらで撫で付ける。童顔の一歩が泣き出すと、それを宥めるときにはぐずる赤子をあやしているような気分にさせられた。
「わーってる。わーってるって。ンなに泣いてっと目ん玉とけちまうぜ」
一歩の上から退いた鷹村が、横に寝転がりながら言った。右腕を枕代わりにした鷹村には、先ほどまでの淫靡な雰囲気は微塵も残されていない。すっぱりとした切り替えのはやさに一歩は胸が締め付けられた。
鷹村に一歩が困り顔を向ける。それがあまりにも情けなかったので、鷹村は一歩の額を人差し指でついた。驚いた一歩がきゅうっと目をつむる。
「まあよ。お前が気にするってんならよ。オレ様にも考えがないわけじゃねえ」
ほてったままの頬をシーツによせている一歩がきょとんとしてみせた。まあるくなった目がどんなことをと鷹村にきいている。
鷹村が自分の頬を人差し指で示す。とんとんと軽く叩いてにやりと口角をひきあげた。
「ここにチューでもしてくれりゃあ、ぜんぶチャラにしてやるよ」
感謝すんだな、オレ様の懐が大海原のように深いことをよォ! と鷹村が笑った。
豪快な笑い声にほうけていた一歩がゆっくりと唇をひらいた。鷹村さん、とちいさく名前を呼ぶ。
「ボク、鷹村さんのこと好きになってよかったです」
ほころぶようにはにかんだ一歩に、鷹村は「だろ?」と不敵な笑みを浮かべた。