COUNTOUT
一歩が一人暮らしをしている宮田の部屋を訪れるのは久しぶりのことだった。
恋人という関係を清算して、もう三ヶ月が経とうとしている。頻繁とは言えないまでも以前は互いに予定を調整して何とか時間をつくっていたので、別れてしまえば顔をあわせる機会すら存在しなかった。
おわりというものは案外とあっけないもので、ふたりで歩んできた二年と少しの期間はあっという間にどこかへいってしまった。すくなくとも一歩にとっては拍子抜けするほどあっさりとした幕引きだった。
宮田との恋愛は、いい経験にはなったが正直いい思い出にはならなかった。傍にいる時間が長くなればそれだけ相手の粗も見えてくる。惚れた腫れたではかばいきれないこともたくさんあった。それを受け入れられなかった結果として、ひとつの恋の終わりをむかえたにすぎない。
二年もの期間があれば、恋人としてそれなりのお付き合いというものをすることになる。
実家住まいの一歩を宮田がたずねて来る事はほとんどなかったが、一人暮らしをはじめた宮田のところには一歩の私物がわずかながら存在していた。そのどれもが泊りがけになった場合に着用していた予備の衣服や色違いの歯ブラシといった、日常に関わるものばかりである。
宮田から連絡があったのも、そういった荷物をどうすればいいのかという相談だった。どうして今になってと一歩は思った。もう三ヶ月も経つのにと心の中で不服を唱える。しかし受話器ごしに「捨ててくれていいよ」と一言返すので精一杯だった。そんな一歩になぜだか宮田の方が譲らなかったため、こうして一歩が宮田のもとへと足をはこぶはめになったのだ。
別れた恋人の部屋というのは居心地が悪い。
そもそものおわりを切り出したのが自分だっただけに、一歩は息がつまるような雰囲気を肌に感じていた。天井はそんなに低くないというのに、閉塞感に押しつぶされそうになる。
宮田の部屋はほとんど変わっていなかった。
せいぜい三ヵ月分の月刊誌が入れ替えられているぐらいで、本棚も相変わらずボクシング関係の本で埋まっている。そこに高校時代のアルバムを入れる余地がないところまで、付き合っていた頃のままだった。込みあげてくる懐かしさに一歩の胸がちくりと痛んだ。
玄関先で荷物を受け取ったらすぐに帰ろう。そう思っていた一歩をひきとめたのは宮田だった。当然のように「よってくだろ」と言われた一歩は面食らった。断りを入れる言葉すら思いつかずにまごついてしまい、結局宮田に促されるまま腰をおろしてしまって今にいたる。
一歩の目の前にある机の上には、よく冷えたフランボワーズが置かれている。グラスは一歩が使っていたものだった。
フランボワーズは、宮田の嗜好品のひとつだ。けして一歩が好んでいたわけではない。一歩がフランボワーズを飲んでいたのは、宮田がそれを好んでいたからだ。
一歩はだされたグラスに手をつけなかった。会話を楽しむためにきたわけではない。けじめをつけた後になしくずしになるのだけは嫌だった。
宮田がひと一人分の距離をおいて一歩の隣へと腰を落ち着けてから、二人の間では無駄な時間だけが過ぎていった。よっていけと言った宮田の口は閉じられたままだったので、最初から話すこともない一歩としてはただただ黙っているしかなかった。
一歩のグラスとは対照的に、宮田のグラスの中身だけがゆっくりとなくなっていく。
そろそろ帰りたい。もうここにはいられない。我慢の限界に達した一歩が立ち上がろうと腰をうかせた時だった。宮田が「なあ」と声をかけた。突然のことに一歩がわずかに息をのんだ。一瞬動きをとめた一歩に対して、宮田が再度口をひらく。
若干膝立ちになった一歩がそれを受けて座りなおした。
「…なに? 宮田くん」
一歩の声は緊張していた。しかしその言葉には、はじめて出会ったときのような好ましさはない。宮田の名前をどう発音していいのか、一歩の声帯はすっかり忘れていたのだ。ぎこちなさに違和感を感じて、一歩が渋い顔をうつむかせた。
妙にはやる鼓動がやけに煩わしかった。
「いや。そういえば言ってなかったと思ってさ」
宮田の口ぶりは相変わらず淡々としていた。ソファーの足を背もたれに、グラスの中の氷を弄びながら宮田が話す。
グラスがゆれるたびに氷がぶつかりあって、からからという涼し気な音をたてた。
「好きだって言ってなかったろ」
事も無げに言ってのけた宮田が、さらに悪かったと付け加えた。
宮田のその一言で一歩が表情を凍らせた。大きく見開いた目が泳ぐ。膝の上に置いたままだった一歩の両手は小刻みにふるえていた。しめった手のひらに、ジーンズの生地がまとわりつくようだった。
一歩は結局指に引っかかったデニムごと拳を握った。
うつむいたままじっとしている一歩に、宮田がもう一度話しかける。
「お前が」
好きだと言い切ったのを合図に一歩が顔をあげた。急な動作に宮田の視線が一歩の方へと向けられる。今にもこぼれ落ちそうな涙をためて、困っているのか怒っているのか。それすらさだかではない一歩と宮田の目が交差した。吸い込まれそうなほど大きな瞳がゆらいでいる。その奥で息づいている行き場のない感情に、今度は宮田が息をのむことになった。
「どういうこと、なの。宮田くん、なんでいまさら」
そんなこというのと一歩がたずねると、宮田はなんでもないことのように続ける。
「ああ。前に木村さんに会ってさ。そういうのは言わないと伝わらないって言われたんだよ」
宮田は単にそれを思い出しただけだという口ぶりだった。
宮田の口から木村の名前がでた瞬間に、一歩は自分の頭の奥と胸のうちがすうっと冷えていくのを感じた。指先のふるえがぴたりとおさまる。かわりに全身の血が凍りついてしまったような錯覚を覚えた。
宮田と別れた原因に、木村は直接からんでなどいない。しかし決定打にはなった。木村が鷹村の名を出して宮田に危機感を覚えさせたことで、一歩はあらぬ疑いをかけられたのだ。
腹立たしいことに今でも忘れられない台詞だった。宮田自身は肝心なことを何ひとつ言わなかったというのに、言うに事欠いて「オレの次は鷹村さんかよ」と開口一番に言い捨てたのだ。事情をのみ込めなかった一歩は愕然とした。
案外と嫉妬深い性質である宮田の前では、一歩はジムでおきたこともジムの人間の話もなるべく避けるようにしていた。それこそ宮田から切り出さなければ、鷹村や青木や木村といった共通の知人のことですら話題にしない徹底ぶりだった。
一度も気持ちをかえしてくれない宮田に、嫌われないように疎まれないように一歩は努力した。男の名前も女の名前も出さないで、宮田の興味のないことは口にせず、彼が好きだといった料理を振舞えるようにした。台所に立ったことのない一歩がそれなりの腕前になるには時間がかかった。しかしそれも宮田のたった一言を得るためならまったく苦にならなかった。
最初の一年は我慢も努力ではなかった。むしろ辛抱しているという自覚がなかった。一歩にとってそれは当たり前のことであって、宮田が傍にいさえすればそれで十分だったのだ。
それが負担になっていったのは一年と半年がすぎた頃からだった。
一歩がいくら好きだと告げても宮田はすました顔で「知ってる」と言うだけだった。それでもめげずに何度も好意を口にすれば、宮田はうんざりするとでも言いた気に顔を顰めていた。眉をよせて不愉快そうにする宮田に一歩は耐え切れなくなってしまった。
ありていに言えば、疲れてしまったのだ。
連絡をとるのも基本的に一歩ばかりであったし、何をするにしてもふたりの間では一歩が宮田に意見をうかがうというスタイルがすでに出来上がってしまっていた。
一歩は宮田から何かをしてもらいたいと望んではいなかったが、せめて「好きだ」という一言が欲しかった。しかしそれは待てど暮らせど与えられることがなかった。
一歩の中で不安が大きくなっていったのも仕方がないことだろう。
そもそもあやふやなままはじまった関係だったのだ。一歩が好きだと告げて宮田が頷いてスタートした交際で、宮田が積極的だったことなんて一歩の身体をひらくことぐらいだった。
しかしその行為の最中であっても、宮田が一歩をどう思っているのかなど教えてもらったことはない。
さすがにそういった状態で付き合っていくことは難しい。
せめて自分がどう思っているのかを宮田に打ち明けて、話し合いをしなければならない。一歩がそう思っていた時に宮田は失言したのだ。そのたった一言が、一歩から宮田への愛情を奪っていった。
うまくいっていなかった自分達を心配して、鷹村と木村が宮田に発破をかけたということは別れた後に知ったことだった。めずらしく「悪ィ。ちっとやりすぎちまったみてえだ」と頭を下げにきた鷹村と、こじらせてしまった間柄の修復を買ってでた木村の説明によって一歩は理解したのだ。
けれど一歩にとってそんな些細なことはもうどうでもよかった。別れの引鉄ときっかけは確かに彼ら二人がよかれと思って一歩のために動いてくれたことだったが、結局のところ問題は宮田の性格にあるのだから。
結局信頼すらされていなかっただなんて、僕はどうしたらいいの。
ふつふつとした怒りに一歩が奥歯を噛みしめた。歯が軋んだ音をたてている。
もう宮田の顔を見るのも嫌だった。あんなに好きになった人をこんなに嫌うことができるということに、一歩は胸を痛めた。口に出せなかった言葉が自分をも苦しめる。
「ボク、もう帰るね」
ふるえる声をやっとの思いで搾り出した一歩が宮田に背を向けた。有無を言わさない迫力に、宮田が目を見開いた。ついで不機嫌をあらわにぐっと目をつりあげた。
「おい。待てよ幕之内」
言葉と同時に宮田の手が一歩の左腕にのびる。それを勢いよく振り払った一歩が宮田に相対した。
堰を切ってあふれだす激情のままに一歩が甲高い声をあげた。
「いい加減にしてよ! 宮田くん、きみ、自分がどんなことしてるかわかってるの!?」
「…なんだと」
語気を荒げた一歩に宮田が噛み付くように低く唸った。叩き落された右手で一歩の左腕をつかまえる。洋服ごしにでも指の感触がわかるほど締め上げてくる宮田に、一歩は「はなして」とはっきりとした拒絶を示した。
宮田は口を閉ざしたまま力を込め続ける。痺れをきらした一歩が叫びをあげた。
「もうやめてよッ! 勝手すぎるんだよきみは! いつもいつもいつもいつも、きみって本当に…!」
激昂する一歩に、宮田は訝しげな顔をしてみせた。眉間にしわをよせたまま、さも俺は悪くないという態度に一歩の顔色がかわる。
怒りに身体を震わせて、ぽつぽつと吐き出すように一歩が唇を動かした。
「よく、よくそんな顔ができるね宮田くん! あんなに、あんなにボクが言って欲しかったことを、よりにもよって簡単に! しかもいまさら、いまさらだよ? ボクらってもう付き合ってなんかいないじゃないか!」
散々振り回しておいてきみは僕を何だと思っているのと叫んで涙をこぼした一歩から、宮田がわずかに視線をそらした。
「…一歩」
宮田が一歩の名前を呼んだ。一歩の脳裏をざっと記憶がかけめぐる。宮田は、抱くときにだけ、一歩のことを「幕之内」とは呼ばなかった。
セックスをするときにだけ囁いた名前を、なぜ今更ふつうに口にしてしまえるのか一歩には理解できなかった。
「気安く呼ばないで。こんなときにだけ呼ばないでよ!」
「ッ…オレの話を聞けよ!」
わめく一歩に宮田が怒鳴った。一歩が目をまるくして、唇をわななかせた。
宮田が一歩の腕をはなす。
「今日だって、荷物渡すためにわざわざ呼んだわけじゃねえんだ。会ってもらえないんじゃないかってずっと悩んでたんだよ! もう一回、オレにチャンスをくれよ…!」
やりなおさせてくれと頭をさげた宮田に、一歩は呆気にとられた。
宮田は一歩の言葉を待っているのか、さげた頭をあげようとはしなかった。物悲しい静寂がふたりの間によこたわる。
はーっとため息をついた一歩が、先ほどまでの剣幕とはうってかわって辟易しているような口調で話し出した。
「やめてよ、宮田くん。きみにはそういうの似合わないから」
「…似合わなくったって仕方がないだろ」
宮田がすがるように一歩の左手に指先を伸ばす。不遜な宮田にしてはずいぶんとしおらしい仕草に、一歩が苦笑をうかべた。
「でも、そういうふうにすれば許してもらえるって思ってるからでしょう? きみのことを好きだったボクだったらきっと許していただろうから、それぐらいわかるよ」
宮田の指先がひくついた。
「でもね、もう。無理なんだ。きみのこと、好きになれないよ」
宮田がぱっと顔をあげる。長めの前髪からのぞく双眸は、一歩が恋しくてたまらなかった宮田の目だ。その奥にある嫉妬の炎に、一歩が目をつむる。宮田の言いそうなことぐらい、すぐに考え付いてしまう。
宮田が口をひらくのと同時に、一歩が同音をきざんだ。
鷹村さんと付き合うのか。
まったく同じタイミングでこぼれでた言葉に、宮田がはっとした。
「ほら。やっぱりきみ、ボクのこと信じてすらいないじゃないか」
泣き笑いをうかべる一歩に、宮田が否定しようとした。しかしそれすらも一歩は遮った。付き合っていた頃には絶対にしなかったまねに、宮田が唇を噛んだ。
「多分ね、ボクと鷹村さんは付き合うようなことにはならないと思う」
子供に言い聞かせるような言い方で一歩が続ける。今は誰とも付き合う気にはなれないという一歩の言葉に、宮田はわずかな希望を見出して一歩の目を見つめた。その瞬間に、冷めた視軸が宮田にあわされる。
「それでも、少なくともきみと一緒にいるよりは、鷹村さんはボクを幸せにしてくれると思う」
あの人、ああ見えて愛情深い人だから。そう言いながら一歩がすっくと立ち上がった。座り込んだまま情けなく頭をたれている宮田を見下ろす。一瞥のあと、一歩は宮田からそっと目をそらした。
心のどこかでまだ宮田を好いている一歩が後悔していた。宮田とやりなおしたいと訴える自分を必死に説得した。もう一度付き合ったところで、どうせ同じように別れることになるのだ。宮田は自分のどこが悪かったのかなんて気づいていない。考えてすらいないだろうことは一歩もよくわかっている。
理由もわからずにただ頭をさげるだけで許してほしいなどと言っているうちは、一緒にいることなど無理だ。
黙ったままの宮田を背に、一歩は玄関まで歩いていく。背後からバンッという音がしたのは、宮田が机か何かを手のひらで打ちつけたからだろう。
一歩は一旦肩口からのぞきこむようにして宮田へ視線をなげた。宮田が「幕之内」と呼び止める。
一瞬息をとめた一歩が、唇の端をゆがませて呼び声にこたえた。
「ごめんね、宮田くん。ボクはもうきみとはだめなんだ」
次にお付き合いする人を大事にしてあげてね、とだけ言い残して一歩はドアノブの鍵をつまんで左向きにたおした。かちゃりという鍵をあけた音が聞こえたのか、宮田がもう一度「幕之内!」と声をあげた。切羽詰った様子の宮田に、一歩は「そんなふうになるなら何でもっとはやく言わなかったの!?」と叫びそうになる自分をおさえこんだ。
「じゃあね。ボクは、ここにはもう…来ないから」