Short*

Is there love in the air?

「あのう、本当にボクなんかでいいんでしょうか」
 きれいに整えてある眉を八の字にして板垣がぽつりと言った。頼りなげな表情からは、とてもボクサーとして有望な選手には見えない。前に好きだった人もそういえばリングでは別人だったなあと久美は思い出した。
 不安と困惑とが交互にあらわれる板垣の目を見つめて、久美がいたずらな笑みをうかべる。
「板垣くん。それ、付き合う前にも言ってなかった?」
 久美の指摘に板垣が「あ」と声をもらした。心当たりがあるだけに少々ばつが悪い。板垣は一瞬だけ視線を泳がせた。ついでほんの少し困ったように唇を尖らせる。手持ち無沙汰なのか、さまよってばかりの左手がとなりに置いてあったクッションを引っ張りよせた。ふかふかとした生地を撫でつつ、クッションを抱きしめる。
「だってやっぱり気にしちゃいますよ」
 甘えたような物言いは彼の妹によく似ていた。ちいさなこどもがするように、板垣は目に見えてわかりやすい態度で気持ちを表現してくれる。
 ともすれば女性的な顔立ちが、少年のような遊び心でもってくるくると表情を変える。板垣学という男は、自分の魅力というものをよくわかっている男なのだと久美は再確認した。
 もうずっと前から板垣を知っている久美でも、駆け引き上手なところは誰に似たのかわからなかった。
 頬をふくらませて拗ねてみせる板垣があまりにも可愛らしかったので、久美は小首を傾げ、上目遣いで板垣を見た。
「それって信じてくれないってこと?」
「ちっ、違いますよ! そういうのじゃなくって」
 大げさに両手をふって板垣が否定する。おどけたような、それでいて本気であるような、板垣の曖昧なニュアンスを久美は好いていた。しかしときどきそんなにじれったいことなどしていないで、しっかり捕まえていてほしいと思うのもまた事実だった。
 板垣が単に引け目を感じているだけだろうということはよくわかる。彼には、自分の尊敬する先輩に対して、そしてその先輩を女性として好きだった久美に対していまだに遠慮がちなところがあった。
 人付き合いのうまい板垣は、おそらく板ばさみになっているのだ。久美を好きだという気持ちに偽りはない。しかし一歩に心から憧れている。好きな女性と付き合いたいが、それは敬愛する人への裏切りになるのではないか。
 女性の扱いに慣れているはずの板垣がしどろもどろになる原因は、いつもそこにあった。
 板垣はきっと彼が自分で思っているよりもずっと繊細で傷つきやすい。一緒にいる時間が増えてきたことで見えてきた内面に、久美はどう触れていいものかと長い間考えあぐねていたのだ。
 しかしそろそろ頃合なのかもしれない。板垣とは恋人という間柄になってもう三年あまりが経つ。中途半端な関係のまま一緒にいて、互いに踏み込めないばかりに失敗した経験のある久美としては、なおさら意識せざるを得ない事態だった。

 ねえ、と久美が板垣にきりだした。雰囲気を察したのか、緊張した面持ちで板垣が姿勢を正す。
「幕之内さんのこと、たしかに好きよ」
「…はい」
 心なしか板垣からの相槌はちいさなものだった。へこんでしまった様子があからさまな板垣に、久美が目配せをする。それを受けてほんの少し気分が浮上したのか、板垣は苦笑して「すみません」と呟いた。照れてしまったらしく、彼はしきりに鼻の頭を人差し指でひっかいていた。
 基本的に板垣は察しの良い男である。女の子の言いたいことを先回りして考えることができる性質なので、久美との会話にもつまることがなければ意思の疎通ができない煩わしさがなかった。歳の近い妹がいるからかなとも考えたが、多分板垣がいわゆる配慮のできる男だというだけだろう。その証拠に久美の兄はとっても不器用で誤解されやすい。
「うまく伝えられそうにないんだけど、聞いてもらえる?」
「あ。じゃあわからなかったら質問するってことでどうでしょう」
 そうしてくれると助かると言った久美に、板垣が双眸を細めた。口元がやわらかな弧を描いている。元々顔のつくりが美しいせいか、そういった表情をうかべる板垣は女優のようだった。
 板垣のはなやかな雰囲気に促された久美は、一度だけ深く息を吐いた。
 ちょっとした緊張にてのひらが汗ばむ。膝のうえで組んでいた指をほどいて、久美が話し出す。
「なんていうか…。幕之内さんとの恋愛って明確なはじまりがなかったの。なんとなくお互いが好きあってるなあっていうのはわかるんだけど、かなり漠然としてて。まわりからいろいろ言われて、ふたりとも恋人同士の気分になってたって言うか」
「え。付き合ってたんじゃないんですか?」
 板垣が心底意外そうに口にした。質問というよりも純粋な疑問に近かった。
 板垣自身、何度かふたりに探りを入れたことがあった。しかしその後にも時間は大分経過している。板垣がきいた時ですらほとんどカップルのようなものだったので、てっきり進展したとばかりに思っていた。
 傍目にも順調だったふたりを、板垣は自分が引き裂いてしまったと後悔さえしていたのだ。
「うーん。全部うやむやだったから、たしかにお付き合いしているようには見えたかもしれないし、私も付き合ってるつもりだったから」
 どんぐりまなこをぱちぱちとさせている板垣に久美が苦笑した。
「多分仲のいい異性のお友達っていうのが妥当だったんだと思う。たまに一緒にでかけたりして、恋人っぽい気分を満喫して。…ちょっと中学生みたいで恥ずかしいんだけど」
 板垣が「そんなことないですよ」と合いの手をいれた。板垣の配慮に久美は頬をうっすら赤らめた。
「でも、そういうのってあまり長続きしないでしょう? ずっと相手から言い出すのを待ってるみたいで何だか悪くって。幕之内さんも言おうとしてくれてたみたいなんだけど…。やっぱり、その、タイミングって重要だから」
 久美の言葉に板垣は一瞬一歩の顔を思い浮かべた。男性としては小柄な彼は、リングの上では雄雄しい面をのぞかせるというのに、それが日常生活で生かされたためしはとんとなかった。アルバイト先が一歩の実家である板垣ですら見たことがないのだ。間違いなく私生活では骨っぽい部分はないはずだ。
 ボクシングのことでは頼りがいのある先輩でも、さすがに男として査定する場合、男性に求められる魅力というものがまるでないのは見てとれた。

 彼の美徳は、女性の目には良くは見えないだろう。


「せ、先輩も結構頑張ってましたけどねえ」
 当たり障りのない言葉を選んで板垣は口を開いた。やや困り顔の板垣に、久美も苦笑をのぞかせる。
「そうなの。でもそれじゃあやっぱりダメになっちゃうかもって思って。私から言ってみようって決心したのよ」
 板垣がごくりと唾をのんだ。やっぱり僕が悪者だったんですねと内心で臍を噛む。しょぼくれた板垣に、久美は「まだ続きがあるんだけど…だいじょうぶ?」とうかがった。板垣が頷いたのを見て、久美はちいさくため息をこぼした。
 板垣は、抱きしめていたクッションを正座した腿の上でぎゅうっと握った。
「でね。いつ言えばいいかなって幕之内さんのことばっかり見るようになったら、ちょっと気づいちゃったことがあって」
「気づいたこと、ですか」
 困っているような、悲しんでいるような、しかしどことなくさっぱりしたような。なんとも言えない表情を久美が見せたので、板垣は繰り返した。念を入れるように久美が頷く。
 かるく下唇を噛んだあとに、先ほどよりもずっとちいさな声で話しかける。
「そう。それでね、あの。…鷹村さんのことなんだけど」
「…鷹村さん? 鷹村さんがどうかしたんですか」
 久美の口から予想外の人物が飛びだしたことに面食らった板垣が、肩を縮ませて、ガラステーブルごしに向き合っている久美の方へとずいっと顔をよせた。
 久美は居間の方を気にするような素振りを見せた。自分の兄がまだ帰宅していないらしいことにほっと一息ついて、そっと耳打ちする。

「なんというか、慈しむってこういう感じなのかなって目でね、幕之内さんのことばっかり見てて」
「えっ。えー…いやあそんなことないですよ。いくらなんでも、それは…ねえ?」
 囁かれた言葉に目を見開いた板垣がはははっと乾いた笑い声をあげてやんわりと否定した。まさかまさかーと間延びした話し方で否定を繰り返す板垣に、さらに驚くべきことを久美が告げる。
「私もまさかって思って。でも、その。気になるじゃない? あの時は本当に切羽詰ってたというか、余裕がなくって。普通に考えたらそんなことあるはずないのに」
「ま、まあそうですよね。鷹村さん女の人が大っ好きな人ですから」
 板垣は、鷹村が昔週刊誌にすっぱ抜かれた素行の一部を思い出した。確か夜のアッパーは空振りしたんじゃなかったっけといらない知識までひっぱり出す。
「でも、気になっちゃって。いてもたってもいられなくって…直に聞きにいったことがあるの」
 板垣が間抜けな声をあげた。はっ? という言葉が久美の部屋に響く。声の大きさをたしなめられて、板垣が謝った。久美の顔色をうかがうように「あの。ひとついいですか?」とおずおずと手をあげる。
「それって先輩に聞いたわけじゃないですよね」
「…うん。すっごく失礼なことしちゃった、鷹村さんに」
 いやあそれで無事ってだけでもすごいことですよ! とは板垣は言えなかった。久美を自分に置き換えて想像するに「鷹村さんってホモだったんですか」と言った瞬間、首から上がねじ切れるような拳が飛んでくるだろうことが明確だった。あまりにもわかりやすい結末に、板垣の腕に鳥肌がたった。背中がぞくぞくする。
 あの鷹村のことだ。奇跡的に久美には被害が及ばなくとも、先ず間違いなく矛先はジムメートに向かう。この場合木村や板垣のように要領の良いタイプはさらりとかわすことが出来ても、根が真面目な青木や一歩は先ず確実に餌食になるだろうことが予測された。そして原因が久美の言葉だとすれば、標的は一人にしぼられる。
 一歩が危険な目にあうということは火を見るよりも明らかだった。悶絶ではすまされない身の毛がよだつパンチに吹っ飛ばされる一歩を想像し、板垣は顔色を悪くした。サーッと血の気がひいていく音がしそうだった。
 ごくりと喉をならして板垣は久美に続きをうながした。
「そ、それで。何て言ったんです?」
「幕之内さんのこと好きなんですかって」
 それはストレートすぎますよ! 板垣は後頭部をがつんと殴られたような気がした。くらくらとした頭で、いざとなったときの久美の思い切りのよさは兄以上かもしれないと考える。
 そろそろ許容量をオーバーしてしまいそうな板垣に、久美の口から飛び出す事実はさらにきつかった。なんでも、久美の言葉をきいた鷹村はあっさりと認めたというのだ。つまり久美の直感どおり、鷹村は一歩のことを恋愛の対象として好きだということになる。
 文字通り頭を抱えてしまった板垣は「え、あの、じゃあ鷹村さんは先輩のことをそういう目で? いやでも笑えない冗談かもしれないし。あの人超がつくほど女好きだし…」とぶつぶつ呟いた。直接的に関わっていないとはいえ、同じジムの先輩二人である。あながち無関係とも言い難かった。
 当事者でもないというのに板垣の心臓は大暴れしている。

「それでね。気持ちの上でね。…負けちゃったなあって思って」
 ぽつりとこぼされた久美の本音に、板垣ははっとして顔をあげた。久美はやっぱり泣きそうな、それでいて困っているような、複雑な表情をうかべていた。
 久美がテーブルのへりに両手をおいて、指をかみあわせる。ゆっくりと力のこめられていく指先を見て、板垣は胸を痛めた。どんなかたちにせよ、恋の終わりにはいつも寂寥感がある。板垣自身何度も経験があるので、久美の胸のうちはなんとなく理解できた。
「それっきり。私から連絡をとらないようにして、会う回数が減っていって。…板垣くんとね。お付き合いすることになったっていう電話をしたのが最後かな」
「えっ…? じゃあ先輩、ボクらのこと知ってるんですか!?」
 先ほどたしなめられた時よりも大きな声だったが、久美は「ごめんね」と申し訳なさそうに苦笑するだけだった。すっとそらされた視線に気まずさを感じて、板垣は頭をかいた。
「す、すみません。ちょっとびっくりしちゃって…」
 板垣の表情が曇る。
 思い出すのはつい先日もジムの面々に久美とのことをからかわれていた一歩のことだった。三年前にすでに板垣と久美が付き合っていることを知っていたらしい一歩は、青木や木村に揶揄されて、どんな気持ちだったろうか。板垣にかばわれるたびにどんな心境になったのか。あらためて考えるととんでもなく失礼なことをしていたのではないかと板垣は心配になった。怒られるならともかく、なまじ一歩も気をつかう性質なだけに、ますます顔をあわせにくい。
 プロポーズで久美を驚かすつもりが、逆に驚かされてばかりの状況にも情けなさがこみ上げてくる。さらっと「はい」という返事を受け取ってしまったこともそうだが、何よりこんな背景があったとは思いもよらなかったのだ。

 この場合、ボクは鷹村さんに感謝すべきなんだろうか。めいっぱいの疲労感の中で、そんな言葉がうかんだ。


「だからね。その、ここからが本当に言いたかったことなんだけど。…板垣くん、だいぶ遠慮してたでしょう? 私にもそうだけど、幕之内さんにも」
「…やっぱりバレバレでしたか。あはは、なんか格好つかないですよね。ボクって」
 空元気のていで笑って見せた板垣に、久美が「ずっと一緒にいたらさすがに」と控えめな肯定を返した。
 静寂が二人の肩に重くのしかかる。
 しばしの沈黙のあと、久美がちいさな咳払いをした。

「私ね、板垣くんのことちゃんと好きだよ。成り行きとかそういうのじゃなくて、本当に一緒にいたいと思ってる。やっぱり幕之内さんとああいう終わり方とかしてるし、板垣くんが気にしちゃうのはわかるんだけど…」
 はっきり言わなかった私も悪いし、と久美が続ける。板垣は黙って久美の言葉に耳を傾けていた。
「でも信じてほしいなあって。私が板垣くんのことちゃんと好きなんだってこととか、知ってほしいなって思って。うまく伝わらないかもしれないけど、本当に」
 だんだんと久美の声がちいさくなっていく。板垣は、さきほどまでの乱暴な脈拍がすっかり整えられて、やさしい気持ちになっていくのを感じた。照れくさい緊張感に、ついつい表情がゆるんでしまいそうになる。


「だからね、その。私と結婚してください」


[ end ]



掲載日2011年02月11日