Short*

Ne me quitte jamais.

 白く大地を覆った雪の中では、黒い兎は悪目立ちしてしまう。
 自然界で目をひいてしまうということは、捕食されやすいということだ。ただでさえ冬は生き物が飢えと寒さで命を落とす季節である。この時期の狩りの失敗は、即自らの死を招くことになる。狼としてそれなりに歳を経ている木村は、その厳しさをよくわかっていた。そして絶好の機会を取り逃がす獣はいないということも、よく知っている。
 いつか、目をはなした隙にこいつは食われてしまうのではないか。木村の懸念はいつもそこにあった。
「おい、あんまりオレから離れるなよ。今日は吹雪いてるから、もう散歩は終わりだ」
 木村の横っ面にうちつける風は鋭利だった。灰褐色の皮毛をかきわけて、木村の痩せた胴をさぐりあてる。骨身に応える寒さは、何度くぐりぬけても慣れぬものだった。
「もう少しだけ、だめですか?」
 一歩はちいさめの耳をひくりと動かした。やや頭頂部についたそれがまとわりついた雪をぴぴぴっとはらう。
「だめ。言ったろう、お前は目立つからそんなに外へは出してやれないって」
 後ろからゆったりと近寄ってくる木村に、一歩は肩口から顔をだすようにして振り返った。うらみがましい視線に、木村は左目をすがめて苦笑したがそれだけだった。
 許可がおりないことにはどうしようもない。一歩はほんの少しだけ耳を寝かせてふくれっ面をした。
「そんな顔してもだめだって。おら、とっとと帰るぜ」
 不服そうな表情のまま一歩がはあいと返事をする。木村は座り込んでいる一歩の背をはなづらでおして歩くことを促した。
 木村の催促にしぶしぶ腰をあげた一歩がぴょこぴょこと跳ねる。
 とうに成獣になっているというのに一歩には警戒心がまるでなかった。この年頃のうさぎといえば、もっとも機敏で神経質なはずである。しかし一歩は相変わらず子供のように好奇心が強く、危険を察知する能力が欠けていた。野性の動物としては致命的である。
 しかし親に育てられていない一歩では、それも頷けることかもしれない。
 小規模なパックから抜け出して、別の群れでのアルファの地位を追われた木村が一歩と出会ったのは、まったくの偶然だった。

 かすかに鼻腔をくすぐる血の臭いをたよりに、木村がうさぎの巣穴を探し当てたのは三ヶ月ほど前になる。その入り口付近で蹲っていたちいさな黒いかたまりが一歩だったのだ。周囲には点々と血痕があった。数メートルとはなれていない藪へは、一歩の親を引き摺っていったあとも残されていた。
 おそらくは狐の仕業だろう。ちいさな仔兎が嬲られているにも関わらずかすかに息をしているのは、母狐が自分の子供に狩りを教えるために機会を与えたからだ。どうやら予行演習ということらしい。巣穴周辺で駈けずりまわった跡もあった。
 このまま放っておけば、このうさぎは死ぬ。それは火を見るよりも明らかだった。ならば腹の足しにもなりはしないが、食ってしまおうか。木村は、一思いに首をへし折ってやった方がこいつのためにもなるだろうと考えた。
 親のいない草食動物は弱い。身を守る術のないこいつは、きっとここで生き延びたところですぐに死ぬことになる。ならば苦しめずに殺しておくこともひとつの優しさだろう。

 やんわりと牙を触れさせたときに、木村のはなにまだ体温のある前足が触れた。ふるえるそれが懸命に木村のはなづらをおしやろうとしてくる。最後の抵抗かと思い胸を痛めた木村の耳に「おかあさん」という弱弱しい声が届かなければ、そのまま噛み砕いていたはずだ。


 目の前をまだるい足取りで進む一歩の背に、木村はそんなことを考えていた。種族は違えども、一歩は昔自分の不注意で死なせてしまった子供を思い出させる。
 子供といっても木村の血を受け継いではいなかった。木村の群れにいたメスは木村を選ばずに第二位の雄と子をなしたため、本来ならば木村にとっては何の関係もない子供たちだった。しかし狼は群れで生活を営んでいくものである。
 それなりの愛情をもって、パックの大人たちで子供たちを育てるというのが当たり前だった。木村も例にもれず、可愛がっていたのだ。かつて自分がそう育てられてきたように愛し慈しんだ。おじさんだなんて失礼な呼び方をするのをたしなめてやっては、ころころと笑う無邪気な子供たちを、親のような気持ちで育ててきた。


 まぶたの裏側には、今も草原を走る子供たちがいる。自分はすっかり歳をとってしまったというのに、彼らはいつまでたっても可愛らしい姿のままだった。好奇心が旺盛で、すぐにいたずらをしては怒られてむくれていた。
 ちょうど、先ほど一歩がしてみせたような表情だった。


 一歩の存在は、木村を感傷的にさせる。


「ほら、はやく中にはいっちまえよ」
 少し疲れているのか、一歩は短い返事をしてひょこひょこと洞窟の中へと入っていった。
「ったく。体力考えて遊べよなあ。帰り道だってあるんだからよ」
 あきれたように言った木村は、少し窮屈な隙間に身体をおしこんだ。狭い入り口をとおりすぎればゆったりとした空間がひらけているのだが、雪が降り積もるたびに木村の身体に入り口で固まった氷や雪がさわるのだけは気にいらなかった。


 木村と一歩がねぐらにしているのは崖にできた洞穴のため、ぽっかりと口をあけた出入り口に雪が入り込むことがあっても、さすがにその奥深くにまでは風も通らない。
 洞窟の中は一年を通して温度がかわらないため、冬の間はあたたかく感じるものだ。崖や岩の亀裂に出来るそういった場所の利点を、木村は経験則で知っていた。

 ようやく探しあてたこの洞窟に先客がいなかったことは、一頭と一羽にとってとても幸いなことだった。
 広い縄張りをもち、無辺に野を駆け回る狼と極々ちいさなテリトリーでその一生を終えるうさぎとでは、体力的にも差が激しい。ひとところに長居をしては無防備な一歩がいつ襲われるとも限らないので、なるべく住まいは定期的にうつした方がいいのだが、生憎とうさぎの足での移動距離はたかがしれている。
 それにせっかく見つけ出した居場所もすでに他の動物のものであれば、相手の領域に踏み込む前に逃げなければならなかった。今回は先日から天候も悪かったため、あまり期待していなかったのだが何とか身体を休める場所を確保できたことに、木村は胸をそっと撫で下ろした。

 それでも、やがておとずれるだろう危険に対して、先手先手で動かなければならない現状にはかわりがなかった。

 痩せさらばえた木村でも、飢えた狐にはおくれをとらない。しかし若い雄の狼とはちあわせてしまえば、結果は考えなくともわかりきっていた。老いたわけではないが、木村は身体を動かすぎりぎりの食事にしかありつけていない。
 ヘラジカを倒すにもイノシシを狩るのにも、仲間の協力がなければどうしようもないのだ。チームを統率し連携して狩りを行う狼は、一頭で生きていくことが厳しい習性ばかりをもっている。
 それにくわえて木村は、常に一歩を見ていなければならなかった。
 木村という狼がそばにいるせいか、一歩は狐や狼に対しても警戒をしない。目と鼻の先に牙をむいたやつらがいようとも、きょとんとしているばかりなのだ。木村が気をつけなければならないのだと言いつけても、よく理解できていないようだった。
 さらに言えば、目をはなすとすぐにどこかへ行ってしまうところも頭を抱える問題だった。一歩の行動は軽はずみなことが多く、危なっかしくて見ていられない。いっそこんなにも気をもむぐらいなら、嫌がってもずっと閉じ込めておこうかと木村に思わせるほど、一歩は奔放なところがあった。

 しかし本来一歩が食い殺されたところで、そもそも木村には何の義務も責任もないはずなのだ。ほうっておいたところで逃げ切れなかったとしたら、それは一歩の責任になる。代償が己の命であるのは、この世界ではあたりまえのことなのだ。わずかにでも怠ったものが悪い。
 木村は、いたってシンプルな自然界の掟に一歩を委ねてしまえばいいと考えることもあった。一歩という名の餌を譲るのが我慢ならないのなら、自分で食ってしまえばいいだけの話だと思ったこともある。同じカテゴリーに入っているわけでもない木村が、わざわざ身を削ってまで彼の傍にいる意味などないではないか。すくなくともメリットは何一つないのだ。建設的に考えれば、やはり殺してしまうことが無難な選択だろう。

 それでも木村がそうしてしまわないのは、このちいさなぬくもりを手放しがたいものだと感じてしまったせいかもしれない。


「あの、木村さん」
 ぼうっとしている木村をいぶかしんだのか、一歩がおずおずと話しかけてきた。ちいさなつくりのはながひくひくと動いている。
「ん? どうしたよ」
 自身のはなづらを舐め上げて、わざとらしく木村は応答した。顔をそらしてあくびをしてみせると、一歩はほっとしたのか、短い尾をひくつかせた。
「狐も狼も危ないから近づいちゃだめだって前に教えてもらいましたよね」
「おー。なんだよ一応は覚えてんのか」
 寝転がっている木村が器用に左の前足で一歩をひきよせる。真っ黒な身体を丁寧に舐めて、木村は「えらいえらい」と続けた。からかわれた一歩が「こども扱いしないでくださいよう」とすねたような声を出す。
「んで、どーしたってえの」
「木村さん、狼なのにうさぎに優しいから何でなのかなって」
 だって、ボクを育ててくれたのも木村さんでしょう? と一歩が小首を傾げた。
「まあ、そうだけどよ。でも他のうさぎを食ってるのは知ってるだろ?」
 一歩が頷く。ほんの少し気まずそうにしているのを見て、木村は一瞬視線を泳がせた。わずかな罪悪感が胸のうちにすくう。
 食べなければ生きていけないのだが、一歩にそういう顔をされると食べなくてもいいかという気持ちになった。
「別にうさぎに優しいって訳じゃねーよ。お前だからなんとなく世話やいちまっただけで」
「なんとなく?」
「狼は気まぐれなんだ。あんまりうるせえと味見しちまうぞ!」
 にやりと口をあけた木村が長い舌で一歩の顔をべろりと舐め上げた。途端に一歩がちいさな身体を飛び上がらせて驚いた。あわてて前足で顔をぬぐう。短い前足をもたもたと動かす様は見ていてあきなかった。
 木村の喉元がぐるるっとなった。
「もー。ちゃかさないでくださいよぉ」
 まだ変な感触でもあるのか、一歩が手早く毛並みを整えた。木村は、腹が減っているとろくなことを考えないなと思った。一歩が眠ったあとにでも、狩りにでかけようかと夜の予定を決める。

 今日の獲物は、なるべくうさぎ以外にしておこうか。冗談のように木村が言うと、一歩は嬉しそうに笑った。


(うさぎは長生きしないだろうからさ、お前が死ぬ頃にオレも死んじまおうかなってのも狼のきまぐれってことにしとくよ)


[ end ]



掲載日2011年02月13日