To have a crush on sweetheart!
午後4時45分になると決まって一歩の携帯に一通のメールが入る。無題で送られてくるメールの本文には「今日の部活、休み。正門前」とだけ書かれていた。用件のみのシンプルなメールを受け取るたびに、一歩は自分の身体の奥深くからとくとくと鳴り出す恋の音を聞いた。まるで羽が生えているかのように、気持ちがふわふわとしてしまう。
送り主の名前は「宮田くん」。液晶画面には、そう表示されている。
誤って消してしまわないように宮田からのメールを別の受信フォルダに移動させてから、一歩はぱちんとケータイを閉じた。二つ折りのそれをブレザーの胸ポケットにしまって、机の中に入れている教科書を急いで鞄につめこんでいく。
悩んだ末に英和辞典も持ち帰ることにして、一歩は席を立った。チェック柄のマフラーをくびにまきつけて、机の横にさげていた紙袋のひもをつかむ。こじんまりとした袋の中には、丁寧にラッピングされた箱がひとつだけ入っている。バレンタインのチョコレート。甘いものが苦手な宮田のために、ビターに仕上げたものだった。
見た目をきれいにととのえる作業にはずいぶんと手こずらされたが、はじめてつくったにしてはなかなかの出来栄えになったので、一歩としては満足していた。
歩き出した彼女にあわせて、スカートのすそがひらひらとゆれる。
彼女の頬がうっすらと色づいているのは、教室の暖房がききすぎていたからではなかった。
初恋は実らない。異性に対して興味を持ちはじめる年頃になるときまって誰かの口からこぼれでる言葉だが、幸いにして一歩の場合にはあてはまらないものとなった。黄色い帽子をかぶって青いスモックを着ていた頃に一目惚れをして、そのまま十年あまりも一途に想い続けた彼女の初恋は、宮田からの告白というかたちで思いのほかあっさりと成就したのだ。
見知ったクラスメートに手をふって、教室から出た一歩はすぐそばにある階段へと歩を進めた。足取りがかるいのは、廊下の窓からちらりと正門が見えたからだった。
ひょっとしたら宮田もまだ校舎の中にいるかもしれないのに、はやく会いたいという気持ちが一歩の足を急かす。
まっすぐ一歩の瞳をとらえた宮田は少しかたい表情をしていた。切り出しの言葉を考えあぐねいていたのか、口を開きかけては閉じて、何かを言いかけては口を噤むのを繰り返していた。何も言わない宮田は、それでも一歩から目をそらすことはしなかった。
切れ長の瞳がまっすぐに彼女を射る。一歩を怖がらせるほどに、彼は真剣な眸をしていた。
一歩は宮田との交際がはじまったきっかけを思い出して口許をゆるませた。少しあごをひいて、くびにまいたマフラーを顔半分までもちあげる。ひとりでにやついているのを見られるのは、さすがにはずかしい。前に久美から指摘されたことがあったので、なおさらだった。
真っ赤な頬をカシミアで隠して、一歩は宮田のことを考えた。今頃彼は下校する生徒の波を見つめて、人の多さに機嫌を損ねているだろう。むすっとした顔で一歩を待っているに違いない。そして運悪くそんな宮田と目があってしまった生徒がどきりとするのだ。
宮田にはよくも悪くも、目力がある。
宮田に呼び出されて相対することになった一歩も、宮田の強張った表情に睨まれていると勘違いしたのでよくわかる。あのまっすぐは、痛いほど胸に響くのだ。
今ではちょっと気恥ずかしい思い出として笑い話にもできるが、実際にあの場にいたときは本当にいたたまれなかった。
つりあがった目によく似合っているシャープな顔立ちをしているので、宮田は誤解をうけやすい。そんなに怖い人じゃないんだよと一歩が説明してみても、友達は皆示し合わせたように「宮田くんってかっこいいけどいつも怒ってるみたいで怖いよ」と言っていた。
口数が多くないことも原因かもしれないが、何よりあの冷たそうな外見がいけないらしい。
「宮田くん、本当はやさしいのになあ」
思わずちいさな独り言をこぼしてしまった一歩に、前を歩いていた男子生徒が遠慮がちに振り向いた。一歩が「あ、すみません」とかるく会釈をする。何事もなかったように歩き始めた青年の後ろで、一歩はますます顔を赤くした。
付き合う前のふたりの関係は? ときかれれば、一歩は言葉に困ってしまうだろう。
宮田と一歩の家は道路を挟んでほとんど向かい合っている位置にあった。そのため学区が同じということもあり、中学までは同じ学校に通っていたのだ。もちろん小学生の時は、登下校もおなじ班である。
片手で数えられる程度ではあるものの、クラスメートになったこともあった。家も近所でクラスも同じならば、ふつうは幼馴染と言ってもいいはずだ。しかし、長年顔をつき合わせていてもこれといった思い出がなかった。ふたりの関係はと言えば、せいぜい朝の教室で宮田から「おはよう」と声をかけてもらったことがあった、という程度である。
同じ高校に進学したことがわかったときも、一歩は宮田に何も言わなかった。あくまでもひっそりと喜んでいただけで、ときおり廊下ですれちがうことがあれば、それで十分幸せだったのだ。
下手にでしゃばって嫌われてしまうよりは、片想いの方がずっといい。消極的すぎるきらいのある一歩ならではの選択と言えた。
だからこそ、違うクラスの宮田が一歩の在籍している教室まで訪ねてきた理由がわからなかったのだ。特別仲が良かったわけでもないし、宮田の家と一歩の家は密な近所付き合いもしていない。だというのに、どうしてわざわざ自分に会いにきたのだろうか。疑問ばかりが一歩の頭を占拠した。
ついでひとつの嫌な予感が彼女の胸いっぱいに膨らんでいった。
とくに彼のまわりをうろちょろとした覚えはなかったが、何か気に障るようなことをしてしまったのかもしれない。女の子に騒がれることを一番嫌っていた宮田だけに、ひょっとしたら知らないうちに不評を買ってしまったということも考えられた。
もしかしたら、ときどき後姿を見つめていたことが鬱陶しかったのかも。
すぎていく時間にじりじりと追い詰められた一歩は、沈黙に耐え切れなかった。緊張して汗ばんだてのひらをぎゅっと握りこんで、そのままおじぎをする。
宮田が何も言わないので一歩はおそるおそる顔をあげ、「ごめんなさい」と呟いた。
途端に宮田は目に見えて不愉快そうに顔を顰めた。怒らせてしまったと慌てて目をそらした一歩がもう一度唇を動かす前に、宮田ははあーっとため息をついた。
そしてしばしの静寂のあと、うなるような低い声が一歩に届けられたのだ。
「まだ何も言ってないんだけど。それってオレとは付き合えないってことか?」
使い古されたストレートな告白とは違ったが、一歩の「そんなことないよ!」という言葉から変わったふたりの関係は、現在おそろしいほど順調に続いていたりする。
「宮田くん! 待たせちゃってごめんね」
正門の内壁に宮田は背をあずけていた。彼の姿を見つけた一歩が駆けよろうとすると、宮田は「別に急いでないから」と右手をかるくあげて制止した。それを見た一歩が小走りをやめる。
宮田はぶっきらぼうな言い方をしたが、ようするに慌てて転ぶようなことがないようにと心配しているのである。他の人にはわかりにくい宮田の気づかいに、一歩はちいさく笑みをこぼした。
「今日は部活、休みだったんだね」
「ああ。練習試合で打たれてるからってオレと木村さんだけかえされたんだ」
「そうだったんだ。大丈夫? あ、明日のおでかけはやめた方がいいかな?」
「…なんで?」
「だって、先生に休めって言われるくらいだし」
「気にするなよ。そんなに打たれちゃいないんだ。顧問が神経質なだけで」
ふたり並んで正門をでると、宮田が「持ってやるからかせよ」と言い出した。
いい意味で手をぬくことを知らない一歩は、いつも教科書をすべて持ち帰るので鞄が重くなってしまう。見た目にもずっしりとしているそれを見て、宮田が申し出てくるのはいつものことだった。疲れているだろうに部活動が終わって帰宅するときであっても、宮田はこうして手を差し出してくる。今日はたまたま部活が休みになったというだけで、実際には日曜日に他県へ遠征してきたばかりなのだ。普段よりもずっと疲労を感じているはずだった。
一歩は申し訳ないなあと思いつつ、素直に宮田に従うことにした。
以前断った際に宮田の機嫌がほんの少し悪くなったことを、一歩は知っているのだ。
じゃあ、お願いしますと言って鞄を渡すと、宮田は無言で頷いた。ついで彼の視線が不思議そうに一歩の手元でとまる。
紙袋を見ている宮田に、一歩が「あっ」と呟いた。宮田は視線をあげて、一歩を促すように目をあわせた。
「あのね、今日はバレンタインだったから…。宮田くん、甘いもの食べなかったよね? 少し苦めにつくってみたんだけど…」
お父さんにあげちゃってもぜんぜん気にしないから! と空いた片手をぶんぶん振って話す一歩に宮田が目をまるくさせた。
「手作りかよ」
思わずといった調子だった。ぽつりと呟かれた言葉に、一歩が照れ笑いを見せる。
「あ、うん。はじめてつくったからあんまり期待しないで欲しいんだけど…」
眉をさげて苦笑しながら、一歩が宮田に紙袋を手渡した。おずおず、といった仕草で差し出された紙袋を受け取って、宮田がすうっと目をそらした。
「…サンキュ」
彼の半歩ほど後ろを歩いている一歩からは、さらさらとした黒髪からほんの少しのぞく耳が見えた。
うっすらと赤くなっている。
照れ屋なところのある宮田のわかりやすい態度に、一歩はもう一度目を細めた。