Short*

Ambiguamente

 鷹村が目をまるくさせることなどほとんどなかった。三年ちょっとになる長い付き合いのなかで、彼はいつも一歩のペースを乱すばかりだった。一歩が鷹村を驚かせたり、表情を変えさせたためしなど、両手で数えられるほどしかない。
 だいたいいつも上をいく理不尽さにやられてしまい、丸め込まれてそれどころではなくなっていた。
 それでも、一歩自身が振り回されることを嫌がっていたわけではないし、なにより体育会系のノリというものをそれなりに楽しんでもいた。
 そもそも鷹村の横暴さは今にはじまったことではないし、誰に対してもそうだった。だからふたりの関係とスタンスについて一歩はとくに気にしたことがなかった。

 先輩と後輩。この関係が崩れてしまう日がくるなんて考えたこともなかったのだ。


 きっかけは本当にろくでもないものだった。

 全部すっ飛ばして鷹村と肉体関係にいたったらしい夜、一歩は相当酔っ払っていた。滅多に口にしない酒に溺れた理由は、久美が結婚を決めたことだった。相手は一歩ではなかった。一歩の知り合いでもなければ、顔も見たことのない男だった。そんな男と久美が結婚する。相手の男の職業は、公務員だと聞いた。一歩の目から見ても、いたって普通の男性だった。とりたてて目立つところはなさそうな、人のよさそうな男。ひょっとしたら雰囲気は自分に似ているのかもしれない。
 久美とはいい関係を築いていると思っていたが、それはどうやら一歩だけが思っていたことで、久美はそうでもなかったらしい。それを思い知らされた気がした。事実に打ちのめされながら知ったことは、彼女には何もかもがじれったすぎたということだった。
 久美は夫になる男性を一歩に紹介したとき、すこし寂しそうな、悔しそうな表情を浮かべていた。その悲しそうな顔を、一歩は今だに忘れられないでいる。


 その残念会と称した飲み会。参加者はジムの面々で、場所はいつもとおなじ太田壮だった。「おまえのいいところはオレらも知ってるからさ」と木村に慰められ、青木からは「トミ子からいい子を紹介してもらうからよ。そんなに気ィ落とすなよ」という励ましをうけた。板垣はちびりちびりと飲みながら「久美さん、ひどいですよ。先輩ばっかりが悪いわけじゃありませんよ」とかばってくれた。
 鷹村には「バカだなァ一歩。久美ちゃん取り逃がしちまうなんてよ。おまえが逃がしたサカナは大きいぞ」と笑いとばされた。

 一歩が次の日のことを考えずに飲んだのはその日がはじめてだった。久美とのデート中にもはなれていかなかったボクシングのことがすっかり頭の片隅へ追いやられていたのか、まともに歩けなくなるまで手をだしてしまった。しまったなあと後悔したものの、なかなか手を休めることができなかったのだ。はやく忘れてしまいたくてコップを空にしていくことに躍起になった。
 半分混濁しはじめた意識の中で覚えているのはそこまでだ。木村だったか、板垣だったかが一歩の実家に連絡を入れてくれたような気がする。それから青木が鷹村に何かを言っていた。

 しばらくしてざわざわと音が立った。そのあとのことは何も知らない。



 目が覚めて、一番最初に飛び込んできたものは鷹村の寝顔だった。一瞬驚いたものの宴会後にそのまま雑魚寝をすることも少なくないので、一歩はぼんやりとした頭を数度ふって「あー、昨日そのまま泊まっちゃったんだ…」と呟いた。そのまま鷹村を起こさないように上体を動かす。
 左腕で身体を支えて起き上がろうとしたときだった。服を着ていないことに気がついたのは。
 一歩の顔がみるみるうちに青ざめる。血の気がひく、という経験はあとにもさきにもあの時だけだろうなと一歩は思った。
 今でもにわかには信じられないことだが、身体に違和感があったのだ。二日酔いとも、練習疲れとも違うけだるさと鈍い痛み。下半身には若干の痺れも残っていた。
 経験したことがないものは怖い。
 心臓が破裂するかと思うほど脈打った。早鐘のようなそれを宥めながら一歩はパニックをおこさないように順序だてて考えた。ゆっくりと昨日の記憶を探っていく。

 昨日は鷹村さんの家でみんなで集まって、久美さんとの話を聞いてもらって、お酒を飲んで、ボクはちょっと飲みすぎてしまって…。そのあと、どうなった? よくわからない。どうして? 断片的な情事の記憶はわずかにあるというのに、どういった経緯でそこにいき着いてしまったのかは、まるでわからなかった。

 とにかく驚いて、一歩はあわてて寝ている鷹村をたたき起こした。寝起きの悪い鷹村だけに、普段だったら一歩もわざわざゆすってまでその眠りを妨げるような真似はしない。しかし状況が状況だったので、彼の肩をつかんで力いっぱいがくがくと揺さぶった。
 ンだよ、うるせえなあ。もちっと寝かせろよともごもご文句を言いながらようやく目を覚ました鷹村に、一歩はたずねた。
「あの、どうしてボクたち、こんな格好なんでしょうか」
 この間抜けな質問に対して、鷹村は何事もなかったかのようにあくびをしてから口をひらいた。「ま、そーいうことってヤツだよ。仲良くしようや」と。そのにやけた顔に一歩は目を見開いた。


 これが鷹村と一歩が肌をあわせるようになった原因だ。思い起こせばあまりにも、あまりにもといったところである。


 決定打にもなりうるそれで愛想を尽かさないあたり、なし崩し的とはいえ、一歩も言い訳はできないだろう。最初の過ちはなかったことにもできるし、どこかでブレーキをきかせることはできたはずだ。でもズルズルと続けてしまった。
 誰でもよかったのか、あるいは鷹村でないといけない何かがあったのか。このあたりのことは依然としてはっきりとしていないが、相手のわがままを許してしまうというのも惚れた弱みのなせるわざならば、最初はどうあれ今ではすっかり鷹村のことを好いているということになるだろう。欲が先か情が先かはたいして違いなどない。
 しかし恋人としてカウントしていいものなのか、そのあたりのことまで曖昧なだけに一歩としてはなにをどうすればいいのかすらよく分かっていなかった。
 手を出したのは鷹村だ。それでも受け入れたのは一歩の方だ。鷹村がきまぐれを起こすよりも前から、もしかしたら彼のことを好きだったのかもしれない。それは恋愛感情ではなかったのかもしれないが、もうすっかり取り違えてしまった。

 最近なんとなくわかってきた自分の気持ちとやらを、やはり一歩はふつうに受け入れた。


 ただ鷹村守という男は非常にわかりにくい。その割りに寂しがったり構ってもらいたがったりと、ときどき一歩ですらその意味をもてあましてしまうことがあった。

 浮気はするけど本気じゃなくて、本音と建前をうっかり間違えて口にして、好き勝手に一歩を呼びつけるけれど、それがまれにふたりだけの記念日だったりして、唐突に甘やかされる。かと思えばふらっと出て行って二、三日ほうっておかれるなんてことはざらなのだ。一週間、顔を見ないどころか電話すらなかったときだってあった。
 鷹村は良くも悪くも鷹村のままだった。抱いた抱かれたという関係になっても、前とちっともかわらない。
 それでもどうしてだか一歩が泣くことは苦手らしかった。そういう素振りを普段から見せてくるくせに、しょっちゅう一歩を困らせるというへそ曲がりっぷりには、もはやため息しかでない。
 きっとボクじゃなかったらこんなに長くもたないよというのは、何も一歩が自称しているだけではないのだ。




 脱ぎかけたシャツを首にひっかけて、ぽかんとした表情のまま自分から目をそらさない鷹村に、一歩が苦笑した。あ、今の顔ちょっとかわいいなあなんて、とうに成人した男には不似合いな感想をもった。
 さあ今からヤるぞ! と言わんばかりに覆いかぶさってきた鷹村の下からするりと這いだして、一歩はうすっぺらい布団の上に腰をおろした。しわのよっているシーツをさりげなくなおしておくことは忘れない。
 鷹村は緩慢な動作で胡坐を組んだ。彼はつい先ほど自分でひっぺがした掛け布団の上に座っていた。
 電気はついている。コトに及ぼうとしておいてつけっぱなしなのはどうなんだろう。一歩としてはついつい小言を言ってしまいそうになるが、顔を突き合わせて話すにはちょうどよかった。

 セックスの途中という状況だったからか、なんだか少し妙な雰囲気がある。何がおかしいとは言えないが、なにかが少しずれてしまっているような、目には見えない壁のようなものがふたりの間に存在している。一歩も、そしておそらく鷹村も、それを肌で感じているようだった。
「そんなにおかしなこといいました?」
 わずかに眉じりを下げて頬のあたりを人差し指でひっかく一歩に、鷹村が「お、おう」とどもった。一歩の言葉への返事ではない、反射的なものだ。ついうっかり口からすべり落ちたと、いまだにぼさっとしている彼の表情が訴えている。
 一歩がじいっと見つめ返す。ばつが悪そうな鷹村は一瞬金魚のように口をぱくぱくとさせた。意味のない動作は、鷹村らしくない。一歩がほんのすこし小首をかたげる。
「あー…その、なんだ」
 鷹村は、手持ち無沙汰なのか右腕を後頭部にもっていった。ばりばりと掻き毟りつつ言いよどむ。そういえばパブのお姉さんと会っていたことが発覚したときも同じようにしてたっけ、と一歩は思い出してしまった。鷹村を責めたことなどなかったのに、そういうときだけ彼は殊勝だ。
 根にもつタイプじゃないと思ってたんだけどなあ、ボク。
 そんなふうにさらりと流せるぐらいには折り合いをつけることがうまくなった。


 鷹村は自分の言葉と言葉の間にある沈黙がいたたまれないのか、うまい言い回しを探しているようにも見えた。
 歯切れの悪い彼ほどめずらしいものはない。こころなしかひけている様子まで見せるので、一歩はほんの少し驚いた。しかし、鷹村さんでもこういう顔するんだなあと思うよりも先に、言わなきゃよかったなあと後悔した。がらじゃないことなんてするんじゃなかった、ともう一度苦笑する。自分でも態度の不自然さぐらいはわかるので、あ、ちょっと下手くそだったかもと思いつつ、一歩は口角を修正した。
 ふたりの視軸がかちりと合う。
「あの。気にしないでください」
 先に口をひらいたのは一歩の方だった。ちょっと言ってみたかっただけなんです、と一歩が両手を顔の前で交差させながら言った。
「困らせるつもりも、なくてですね」
 むしろ、一歩自身が少し困ったように「あはは、まいったなあ」と笑った。声は乾いてしまっていた。鷹村には、無理に笑おうとしているように見えた。強張った顔をしている。それは我慢を強いられている子供の顔にもよく似ていた。一歩の幼少期など、鷹村は実際に見たことがないというのに、なんとなく聞き分けのいい子供時代を想像してしまった。優等生然とした姿というよりも、おしつけられて飼育当番をするような、大人しいガキはたいていクラスに二人はいたっけ。そんなことを思った。

 すこしうつむいてしまった一歩からのぞけることは、落胆が大部分を占めているということだった。そこには気恥ずかしさと照れもある。
 あとは他に何だ? 鷹村が訝しげな顔つきになった。

 鷹村の視線がすーっと落ちていく。すべるように一歩の顔からはなれて、彼の膝元でいったんとまる。正座している一歩のひざの上には静かに両手がおかれていた。視界のすみで、指先がかすかに震えている。
 一歩がおくるわずかなサインを鷹村は見逃さなかった。途端、ぼんやりとした、しかし不遜な顔つきが、しまった! という表情を浮かべた。
 お決まりの「あー」といういいよどみの後に唇をとがらせる。すねたようなしぐさだった。
「いや、別によ。嫌ってわけじゃねえンだけどよォ。おまえでもそーいうことを思うのかって、つい、な。驚いちまったンだよ」
 どっちかっつったら、されるがままじゃねえかと鷹村が続けた。一歩は要領を得ないのか、ぽかんとした表情をつくった。こぼれてしまいそうなほど大きな目が、申し訳なさそうに「それはいったいどういうことですか」とうかがっていた。

 だー…っとにニブちんだなおまえは! 鷹村が、半ば自棄になったように切り出す。
「オレ様がいろいろ喜ばせてやろーとしてもよォ、声も出さねえ、不服そうにしやがる、自分からはちっとも誘ってこねえとくりゃあ、こりゃあそろそろシオドキかぐれえは考えンだろーがタコ!」
 一息に言い切った鷹村は、ふんとはなを鳴らした。
「え、え、あ、のどういう…?」
 困惑する一歩をぎろっとにらみつけて、舌までならす。ちっ! という乾いた音に一歩がすこしおびえた。
「だからよお。ストレートに言やあ、あれだ。オレ様とのセックスにあきたのかと思」
 鷹村が言い切る前に、すかさず「鷹村さんッ!」という一歩の制止がはいった。首元までさっと染まった一歩が唇をふるわせて「もう、言わないでくださいよそういうことは」と付け加えた。
「は、はずかしいんですよ、そういうの。そりゃあ鷹村さんは平気かもしれないけど…」
 聞き取れないような小さな声でごにょごにょと続ける一歩に、
「ったくおまえは人の話を最後まで聞け、このバカ!」
 と鷹村が頭をはたいた。一歩は首をすくませて小さく「うっ」と声を出した。
「あのよお、あんま言いたかないが倦怠期だと思ってたんだよ。さすがのオレ様も驚いちまったっつーわけだ。まさかヤってる最中にうんでもすんでもねえヤローからキスマークつけたいだなんてエロい台詞、飛び出してくるなんざ誰も思わねーだろうが」
 ちょっと宮田にでも聞いてこいよ。アイツおんなじこと言うぜ、と鷹村が断言した。そのままじとっとした目つきで一歩を見やる。
 うっと言葉につまった一歩は、二度三度と首を左右にふってから頭をたれた。うつむいてもごもごと口を動かしている。
「だ、だってですね…」
 濁音のような「ああ?」という脅しに、一歩が首をすくめる。意を決して息をのむ。
「だって…ぼ、ボクはその、男だし、女のひとみたいな声をあげるのは、その、変じゃないですか。やっぱり。そ、それで! それでですね、鷹村さんに嫌われたらいやだなあって、あの、思いまして」
 たどたどしい話し方に苛立った鷹村が「要するに、アンアン喘ぐとオレ様に愛想つかされるんじゃないかってことか」と言った。身も蓋もない言い方だ。一歩が羞恥に唇を噛む。
 か細い返事をよこす一歩に、鷹村は盛大にため息をついてみせた。

「あのよお、一歩」
「は、はい」
「おまえ何年オレ様のそばにいんだっての。そんくれー分かるだろうが」
 そりゃあオンナ抱きにいったりもしたけどよ。ちゃんと帰ってきてんだろ? なんだかんだオレ様が一緒にいんのはテメーだけだろーが。ちったあ考えてみろよ、そこらへんのことをよ。
 呆れ半分の表情で笑う鷹村を上目づかいに見て、一歩があのう、とちいさく手をあげた。遠慮せずに言ってみろよと言わんばかりに鷹村があごをくいっとひいた。
「なんだ?」
「あの、それってボクたち…付き合ってるって思ってもいい、ってことですか?」
 一歩の言葉に鷹村が再び目をまるくした。
 なんだか今日は変だ。立場が逆転しちゃったみたいだ、なんてことを一歩は考えた。
 鷹村は右手で目元を覆ったあと、がっはっはっと品のない笑い声をあげた。腿を軽く叩き「傑作だな、おまえ! なんだオレ様を笑い殺す気でもあんのか」と笑う。犬歯をむきだすような、好戦的な笑みは愛嬌のあるものだった。どことなく憎めない。
 鷹村はくつくつと喉をふるわせ、中途半端にひっかかっていたシャツを脱ぎ捨てた。そのままラリアットするように一歩の首に腕をひっかけ押し倒す。乱れた布団がさらにぐしゃぐしゃになった。
 え、え、えええ? と一歩がちいさく呟いた。最初は驚いての言葉だろう。だが最後の言葉には、期待が見え隠れしている。

 鷹村は一歩の上にのしかかったまま耳元に唇をよせた。何事かをささやかれた一歩がこれ以上にはないほどまっ赤になった顔でわたわたと暴れだす。軽い抵抗を押さえつけ、鷹村は人の悪い笑みを浮かべた。

「まったくよォオレ様みてーな寛大な男、世界中探したってそうそういないぞ。あーあァ、三年来の恋人に恋人じゃないですよねって宣言されても許しちまうなんて、オレ様は超イイ男だな本当によ」


[ end ]



掲載日2011年04月12日