Short*

Madagascar jasmine

「えっと、あなたが幕之内一歩さん?」
 はにかみながら彼女が言った。鈴の音のような、かわいらしい少女の声。また聞けてよかったなんてボクがほっとしていることを彼女は知らないんだろう。無理もないことなのに、気をつけないと「やっぱり忘れちゃったんですね、久美さん」と言ってしまいそうになる。それは絶対に口にしてはいけないことなのに。
「はじめまして。それから、これからよろしくお願いしますね」
 かるく頭をさげた彼女にこたえてボクも挨拶をする。いつもこの瞬間は目頭があつくなった。
 初対面を装うのはまだ慣れない。でもそういうところをとりつくろって隠すことには慣れてしまったから、胸がざわつくようなことはもうなかった。それが、すこし虚しくもある。


 だいたいの説明は宮田くん、あの、あそこに立ってる男のひとから聞いてると思うけど、なにかわからないこととかありますか? 気になることとかあったら何でも聞いてくださいね。ボクじゃなくても、ここにいる人たちはみんな答えてくれますから。
 はい、大丈夫です。あ、でも宮田さんに明日から射撃訓練が開始されると聞いたんですけど、今日はどうすればいいんですか?
「とくに何か言われてない?」
 こく、と頷いた彼女がはいと言う。黒目がちのまるい目がボクをうつす。

「じゃあ今日はゆっくりやすんで、明日から一緒にがんばろっか」


 ボクが笑うと、やっぱり彼女も表情をやわらげてはっきりとした返事をかえした。ボクが「はい」以外のことを言ってくれればいいのにと思うことなんて、やっぱり今の彼女にはわからないんだろう。それは本当に悲しいことだけどしかたがなかった。


 これが彼女とボクが十七回も繰り返している会話のすべて。そっくりそのまま、まったく同じ内容、同じ言葉の繰り返し。もう作業のようなものだった。
 最初のころは彼女が退院するたびに同じことを言うものだからうろたえた。だって仕事をする前に約束していたこともあって、彼女はボクとすごす休暇を本当に楽しみにしていたから。だから「はじめまして」と言われてボクは驚いた。彼女はといえばそんなボクの対応をいぶかしんでいた。それもそうだろう。

 彼女にとってはボクと顔をあわせるのははじめてだったのだから。でもボクはもう二年も一緒にいた「久美さん」がいなくなってしまったことをうまく処理することができなかった。

 目の前にはやっぱりそっくりそのまま、彼女がいたから。

 要領の悪いボクだけど、さすがに十回目をこえたあたりからは彼女にもう一度会えることを感謝するようになった。ボクの知っている久美さんはもういないけど、それでも彼女は目で見て足で歩き、こうして生きている。生きているから、ボクはほっとした。
 仕事で負傷して入院し、そのまま退院できずに死んでしまう女の子も少なくないと聞かされていたから、ボクのことやふたりで一緒にしたことのすべてを忘れられてしまうことは悲しいけれど、それでも、彼女という存在がなくなってしまうよりはずっといいことだと思ったんだ。

 だってボクは今まで祈ったことなんてなかったカミさまにすがることしかできなかったから。


 彼女の無事を、そしてできれば記憶をなくさずにボクのところへ帰してほしいと。




 彼女とはじめて出会ったのは病院のベッドの上だった。正確には、意識不明の重体から奇跡的に目を覚ました彼女が眠っているときに紹介された。病室には足を踏み入れていない。ただガラスケースのようなそこを、そのガラスごしにうかがい見ただけだ。会った、だなんておこがましいのかもしれない。
 彼女は満身創痍の状態で、包帯で覆われていないところがないほどぼろぼろだった。肌の色がのぞいていたのは左半分の顔だけだったし、そこも健康的とは言いがたいものだった。
 彼女の身体はうすいシーツですっぽりと覆われていた。それが彼女の体のラインにそってやまをつくっていた。四肢が欠損しているため、そのやまは右手は肘から、左手は手首のあたりから不自然になくなっていた。両足は、膝下から切断されていた。
 だからひとの身体というよりも、無機質な部屋のシンプルなベッドに寝かされている彼女はとても不恰好なマネキンに近くて、ボクは一瞬何がなんだかよくわからなかったんだ。

 しばらくの凝視でようやくそれがモノではなくヒトであることを理解したボクは、耐え切れずに目をそらした。直視するにはあまりにも痛々しい姿だったから、あのときのボクは視線をはずすことでしか彼女を気遣うことができなかった。


 そんな状態のボクに木村さんが彼女の経歴を話し始めた。数枚のレポートをぺらぺらとめくる音と、聞こえもしない生命維持のための機械音が重なったような気がした。

 家族構成は父母と兄がひとり、平凡な四人家族。親戚はほとんど亡くなっていて、遠縁とは付き合いがない。
 父親はいたって普通のサラリーマンで、母親はときどきパートにでている。高校生の兄には素行の悪い面もあるようだったが、それだって道を大きくそれているわけではない。どこにでもいるようなありふれた家族だと木村さんは淡々と言った。
 じゃあどうしてこんな目に? ボクの質問の答えは想像していたものよりもずっとひどいものだった。
「怨恨筋じゃなくてな、強盗殺人だ。複数人で構成されている外国人グループが、たまたまこの家族が住んでいる家におし入った。父親さんとお兄さんは鈍器で殴られたあと家にあった包丁、ナイフ、はさみ等の刃物類で数十箇所刺されてる。直接的な死因は失血死だ。警察の見解じゃあ、気を失ってる間に縛られたんじゃないかってよ。おふくろさんは心臓を一突き、手際よく殺してる。殺害方法と目撃情報の少なさからどう考えても慣れてるヤツらだって話だ。…ベッドに横になってるあの彼女は、父親さんとお兄さんの目の前で嬲られながら、二人が亡くなるところを見ているそうだ」
 言葉を失ってしまったボクに、木村さんはなおも続けた。

「目を覚ましてから警察の聴取を受けたあと、彼女は殺してほしいと願い出たそうだ。…どうする? おまえ、彼女を素体に選ぶのか」


 ボクはこのとき木村さんになんてこたえたのか今でも思い出せない。けど、三週間後に彼女に義体を与える方針で進んでいるということを教えられたのだから、きっとすぐに「はい」と返事をしたんだろう。
 書類をわたされるときに公社ではたらく際の名前をつけなければならないと聞いて、とっさに浮かんできたのは「久美」という名前だった。
 彼女がまぎれもない純粋なヒトで、家族と日々の生活を営んできた名前。宮田くんには「悪趣味だな」といわれてしまったけど、ボクが勝手に新しい名前をつけてしまうよりはずっといいし、何より彼女が義体になるということは、条件付けも施されるということだ。
 ボクは、手術と条件付けを受けて以前の記憶を持っている少女は少ないことを知っていた。それがいいことなのか悪いことなのかはボクにはわからなかったけど、少なくとも幸せだったころを忘れてしまうなら名前ぐらいは残っていた方がいいんじゃないかと考えて、結局もともとの名前で登録した。


 久美さんは本当に優秀だった。
 事故後の障害や病気でずっと手足に不自由していたひとの場合、義体の手足に慣れることははやい。
 けど久美さんは悲劇的な事件に巻き込まれるまで普通にすごしてきた健常者だった。そういうひとのときは、銃器をあつかう訓練や身体を鍛えたり動かしたりすることより先に、まずは新しい手足に慣れることからはじめなければならない。もともとあった自分の手足のように動かせるようになるには、血のにじむような努力が必要だ。個人差はあるけど、みんなとっても苦労していた。
 でも久美さんはすぐに自在に扱えるようになった。リハビリと称してすすめてみたヴァイオリンもピアノもすぐに弾くことができるようになって、繊細な力加減もすぐに得とくした。

 久美さんは日本ではじめての義体だったけど、すべてのはじまりになったイタリア本部では義体の成果が認められていたから、ノウハウや技術は格段に向上してからの検体(こう言ってしまうのはとても心苦しいけど―)になる。だから人口筋肉と人体のなじみ具合も改良の成果ではないか、というのが上の見解だった。
 優秀な義体。残念なことだけど、彼女たちと直接接するような機会がほとんどない偉い人たちは、彼女のことをそういう単語で片付ける。だからボクたちに与えられた仕事はけして楽なものではなかった。

 政府の管轄にある団体なので、暗殺が主な仕事の内容になる。ターゲット以外に顔を見られた場合も殺害する対象になるし、しくじってしまえばいずれ廃棄されるような立場だった。高価だけど換えはきく、そういう消耗品として扱われた。


 久美さんはしっかり任務を遂行していったけれど、彼女は純粋な機械ではないから苦しんでもいた。相手に銃をむけることが少し怖いと言ったこともあった。だからボクは、ボクにできることをしようと思って公社にしばらくの休暇を申請した。久美さんがひととき休む間に、他のフラテッロたちが現場にまわされることを知っていた。だから具体的な解決法なんてものではなくて、ただの気休めに違いなかった。それでもボクは、彼らの犠牲の上になりたつちいさな幸せでも彼女にあたえてあげたかった。

 ボクの願い出たことに対して上が出したこたえは無情だった。ヒトの心がうずくのならばそんなものはなくしてしまえばいい。そういう命令が下された。半紙に書かれた文章は本当にすくなくてびっくりしてしまうぐらいで、まだるっこしい説明を省いたそれはとてもわかりやすかった。簡単に言ってしまえば、彼女に対する条件付けを今までよりも厳しくしろということだったから。


 条件付けは、いわゆる薬品と催眠療法でのコントロールだ。義体の少女たちに仕事をさせるために一定の感情を組み込んでいく。まだ若い女の子たちに、自分のフラテッロに対して愛情を抱かせる。そうすることによってよりスムーズでスマートな命令系統を確立させるのだと教えられた。
 義体にどのぐらいの洗脳をするのか。それはどんな愛情の種類なのか。これは担当官に一任されていた。だからボクは最低限の投薬におさえていた。彼女はとても優秀でミスなんて犯さなかったし、なにより身体に負担をあたえる薬品を使ってロボットのようにはしたくなかった。
 木村さんは「義体を人と思うな。いいか、あの子たちを人間だって考えちまったらこっちの身がもたなくなるんだ」と言っていたけど、ボクにはどうしても割り切ることができなかった。だって久美さんは、名前を呼べばふりむいて笑ってくれるし、仕事のとき以外は生身の人間のようだったから、ボクは決断できなかったんだ。

 いつのまにか好きになっていたから。肉親や親類としてではなくて、仕事の道具でもなくて、ボクは久美さんという彼女が好きでたまらなかった。
 上層部の人にはけしてわからないことだと思うけど、ボクは彼女に恋をしてしまったんだ。木村さんは気づいているようで、けしていい顔はしなかったけど何も言わなかった。
 ボクだってものがわからないわけではなかったから、彼女との先なんて考えなかった。ただ気休めにもならない些細なことでも彼女の支えになれるならそれでよかった。それはひょっとしたら担当官と義体の関係をひどくこえたものだったかもしれないけど、ボクは彼女にしてあげたいことがたくさん、たくさんあったからそれで良かった。



 投薬を、まるで実験のように増やされていった彼女は物忘れをするようになった。最初は部屋においてある手鏡の場所を思い出せなくなって、クローゼットの位置もわからなくなった。
 仕事を終えるたびにボクが買っていったテディベアの名前も忘れて、詳しかったはずの紅茶やお菓子の銘柄もすっかり抜け落ちてしまった。最後には自分が何かを忘れてしまったということすら感じられなくなって、彼女は本当に空っぽになっていった。ボクがどれだけ懸命にその記憶をすくいとって思い出させようとしてもだめだった。
 でもボクの名前だけは覚えていてくれたから、きっといつか知らないうちに思い出してくれるんじゃないかと思っていた。本当はもう手遅れなんだと知っていたけど、ボクは見えないふりをして自分を誤魔化した。

 条件付けは寿命も削っていく。もともと長生きなんてさせるようなつくりではないのだ、義体は。使い捨てのティー・バッグのように。


 まっさらになってしまった彼女の背中はとてもちいさい。それでも銃をあつかうその姿は堂に入ったもので、当の本人さえも「銃なんてさわるのはじめてなのに。なんだか懐かしい感じがするんです。おかしいですよね」と戸惑うぐらいだった。ボクが「上手だね」なんて言葉をかける間にもあざやかな手並みで対象物を撃ち落していく。彼女の手足だけは、ボクが教えたことを忠実に覚えている。それがうれしいのか悲しいのかわからなくて、ボクは彼女の背中を見失ってしまいそうになった。
 涙のまくがゆらゆらと久美さんをかすませる。
「幕之内さん」
 今の彼女がボクを呼ぶ。一歩さん、と呼んでくれたひとはもうどこにもいない。


[ end ]



掲載日2011年04月17日