May I ask you out?
「…えっと」
じゃあ、ボクも日替わりで。
やっとこ言葉をしぼりだした一歩は、実のところ少し困惑していた。その証拠に、黒目がちの大きな目が右往左往とせわしなくしている。視線を落ち着ける場所を完全に見失っているのだ。
あたりはずれのないチェーン店、どこにでもあるようなファミレスで外食するのは、一歩にとっては別段珍しくもなんともないことだった。
馴染みの顔ぶれでふらっとよっていくのは、何もシュガーレイや居酒屋ばかりではない。小腹のすいた二、三人が集まって、ときにはプロ志望の練習生を交えながら軽食をとることだってある。
だからなにも、一歩はこの場所自体に萎縮しているというわけではなかった。
ただただ目の前にいる男との距離をはかれずにいるのだ。いったい全体何がどうしたと言うのだろう。一歩の頭の中はまさにこの一言につきた。そしてその原因やらなにやらについてはいくら考えてもサッパリだった。まさに青天の霹靂すぎて、自分のおかれた状況を今一把握しかねているのだ。
挙動不審な一歩と相対している沢村は、所在ない様子の一歩を目の前にウエイトレスが運んできた料理をもくもくと食べている。直に一歩の頼んだランチも配膳されるのだろうが、同伴している相手に一言も断りなく食べ始めた沢村に、一歩はあっけにとられ、感心すらしてしまった。
ちいさな頃から人の顔色ばかりをうかがってきた一歩にとって、沢村のような振る舞いは顰蹙するようなものではなく、むしろあこがれだった。
そう言ってしまうと思春期の少年が悪っぽさにあこがれるようなものと誤解されがちだが、それとこれとはニュアンスが違っている。
要するに、そういった大胆な行動がとれるほどの度胸がまぶしく見えるのだ。
かと言ってそれを身につけたとしても、優等生的な常識をもっている一歩では実行することはありえないのだが、着眼すべきはするかどうかではなく、ある種の「我の強さ」が自分にないものだけに、一歩を強烈にひきつけてやまないという事実だった。
現になんだかんだと言って鷹村の理不尽につきあってしまうのも、こうしたマイペース人間への羨望がそうさせるのだろう。一歩が尊敬してやまない宮田も、やはりというかなんというか、ばっちりこういう人種のたぐいに名を連ねている。
ちなみにまったくの余談だが、世の中では一歩のようなタイプの女性は「食いモノにしやすいオンナ」として認識されがちである。
一歩がぼーっとしていると、よどみなく食事をとっていた沢村の手がぴたりととまった。それにつられるようにして我に返った一歩が顔をあげると、沢村のいぶかしむような表情が両目に飛び込んできた。
しまった! と思ったところでもう遅かった。
「どこ見てんだ」
ぶすっとした声だった。不快さを隠しもしない。沢村は怪訝そうに眼を細め、眉間にしわをよせていた。
ばつの悪さもあってか、一歩は沢村のそうした様子にしどろもどろになった。遠慮がちな身振り手振りでバレバレな小芝居をうってみるが、沢村の糾弾するような視線はますます鋭くなるばかりでどうにもやぶへび状態だった。
しかしここで黙ってしまうと余計に居心地が悪くなりそうで胃が痛い。なんだってこんなメにあうんだろう。なにか悪いことでもしたのだろうか。一歩はそんなことを思った。
すこしでも己のおかれた状況を打破するべく、意を決して深呼吸を一度、一歩はゆっくり息を吐き出した。ついで遠慮がちにもごもごと口を開く。
「あ、その、お、おいしいですか?」
「ふつう」
ぴしゃり! という音すら聞こえそうな返答だった。
一歩の努力は懸念したとおりあっさりとカウンター使いによって切って落とされた。予想していたとはいえ、そっけない物言いに心がくじけそうになる。
「そ…うですよねえ。…あ、の、沢村さんはその、いつもくるんですか?」
問いかけに、沢村は一瞬きょとんとした顔を見せた。
一歩の言葉を理解しかねたのか、軽く小首をかたげる沢村に言い方をかえて伝えなおす。
「ファミレスとかいつも利用されてるんですか?」
「たまにくるけど。いつもってわけでもないな。だいたい自炊だよ」
淡々と沢村がこたえる。食器にふれたナイフがカチャリと音をたてた。どうやら食事を再開するらしい。
自炊、という言葉に糸口を見つけた一歩が「じゃあ沢村さんって料理できるんですね。すごいなあ、ボクは母の手伝いぐらいで、包丁なんて滅多にもたないから」などと会話をふくらませる努力を続けたが、その後はなにをどう言っても沢村から二言以上を引き出すことはできなかった。
そうですか、という一歩の相づちも次第に小さくなる。
そうなってくると一歩の目はテーブルのはしからはしへ、そして窓の外へと見るものをかえ、その合間にチラチラ沢村を盗み見るという運動をするしかなくなった。
ようは万策つきたのだ。お手上げ状態で、もうどうすることもできない。せめてランチが運ばれてくれば会話がなくても不自然じゃないのに、と一歩は嘆いた。
一歩の視線をさまよわせるたびにその視界に入ってくるのは沢村がもくもくと食べているランチだった。金曜日の日替わりメニュー。定番とも言えるデミグラスソースがかけられたハンバーグの横に、タルタルソースをのせたエビフライがふたつ肩を並べている。
鉄板の上にはそれらとは別個に小皿があるのだが、どうやらその中にはもやしと一緒に蒸された若鶏がいるようで、おいしそうなラインナップだった。
沢村が文句ひとつ言わずに食べているところも、おいしそうに見える一因かもしれない。
成人男性の昼食にしてはいささか小ぶりでボリュームにかけるのだが、ワンコインちょっとで簡単に食べられる上にライスはたった50円ぽっちで大盛りにできるのだからなおのこと魅力的だ。
量はともかく薄給のプロボクサーの財布事情には非常にありがたい価格設定である。
しかし一歩はそんなことよりもなによりも、沢村のナイフさばきが案外とうまいことに驚いていた。予想外なことに本当に丁寧にナイフとフォークを使うのだ。音もあまり立てない。正直物事全般に器用な木村の食べ方のほうが男くさく見えるほど、沢村の手つきは繊細だった。とてもじゃないが凶悪な試合運びをする男には思えない。失礼ながら一歩は「沢村さんってキレイにごはん食べるひとなんだなあ」と感心した。どう見てもそういう男には見えないからだ。
が、そんな悠長な観察をしている場合ではない。
記憶に新しい、とまでは言えないが沢村と一歩との間柄は元挑戦者とそれを叩きのめしたチャンピオンでしかない。親しい関係とは口が裂けても言えないだろう。
一歩はその手で沢村の眼底骨を砕いているし、沢村の態度はリングに上がる前から褒められたものではなかったのだ。互いにうらみつらみや嫌悪感を持ったとしても不思議ではない。よしんばそうでなかったとしても、好意的な解釈なんてできようはずがなかった。
だから鴨川ジムに沢村がたずねてきたときも一瞬で場の空気はぴいんと張り詰めたし、いきなり「アンタに用がある」と宣言されても一歩は対処の仕方がわからなかった。
突然の来訪にくわえ、沢村自身の不遜な態度にあからさまに顔色を変えた鷹村が非常に恐ろしかったため、ついつい沢村に言われるままバイクにのせられてここまできてしまったのだが、一歩は沢村にどんな意図があるのかをまったく知らなかった。
この状況って、ひょっとして色んな意味でマズイんじゃないだろうか。
一気に現実に引き戻された一歩は、どっと冷や汗をかいた。すすすーっと血の気が引いていくのが自分でもわかる。背筋がぞくりとしたのは、何もファミレスの冷房が原因ではない。
どっどっどっど、とやけに鼓動がはやくなる。それにあわせて一歩の考えも悪い方へと転がっていく。
沢村は、ただ一緒に遅めの昼食をとりにきたというわけではないだろう。それならばもっと身近な人を誘えばいいはずだ。わざわざ東京にきて、そしてジムにまで立ち寄って自分を連れ出したのだ、沢村にはそれなりの用とやらがあるに違いない。
じゃあその用事ってなんだろう?
今現在一歩がおかれている状況、その居心地は非常に悪い。しかし今のところ険悪なムードではないのは確かだった。
それでも自分たちは、友人関係ではないのだ。トレーナーに転身してからの沢村は少々丸くなったと千堂から聞かされているが、やはり一抹の不安はある。
そしてなにより沢村とわかれてジムに戻ってからのことを考えると恐ろしかった。タイミングの悪いことに、会長は八木をつれて留守にしている。
つまり今日の鴨川ジムには鷹村をとめられる人物が一人もいないのだ。
沢村のバイクにまたがってちらりと後ろを振り返った際に見た、あの悪魔のような形相を一歩は忘れられなかった。
「おい!」
ぐるぐると悪循環をおこしていた一歩を、沢村が乱暴に呼びつける。一瞬びくっと肩をすくませた一歩は、またやってしまった! と思いつつ、そろそろと顔をあげた。
こってりしぼられた子犬のような仕草にわずかに沢村の表情もゆるむが、一歩にはわからなかった。
「ランチ、きてるよ」
「え、あ…はい。すみません!」
沢村に言われ、慌てた一歩がナイフとフォークをとる。いつのまにかきていたらしい日替わりランチは白い湯気をあげていた。
一歩から話しかけなければ沢村は口を開かないので、自然と静かな食事になる。すこし緊張しているせいか、一歩はおいしそうに見えたハンバーグの味もよくわからなかった。作業かなにかのようにフォークを口へと運ぶ。当然先に食べていた沢村の皿の方がはやくに片付いたのだが、用事とやらを切り出す素振りはいっこうに見られなかった。
やや遅れて一歩も食べきると、先ほどとまったく同じ状況に陥るはめになった。沈黙が続いて、空気がどんどん重くなる。
これからどうすればいいんだろう、と悩み始めた一歩をよそに、沢村が窓際によけていたメニュー表をとった。無表情のままパラパラとめくってデザートのページを開くと、そのまま一歩の方へとメニュー表をよこしてきた。
沢村の示すことがわからず一歩が困惑をあらわにすると、むっとしたらしい沢村が口を開いた。
「…デザート食べないの。おごるよ」
「せ、先輩! 大丈夫でしたか!?」
呆然としている一歩の肩をゆさぶって「何もされてないですよね!?」と板垣がたずねる。
沢村との食事が終わり、結局用事とやらの真相はわからないままジムの前まで送ってもらった一歩は、マフラーをふかす音を聞きつけて駆けよってきた板垣よりもなんとも言えない表情をしていた。
「えっと、うん。お昼ごはんおごってもらっちゃったぐらい、かな?」
ええーっ! なんですかそれ! と叫ぶ板垣の背後で、騒ぎをききつけてやってきた木村も訝しげに眉をよせている。
「なんだよ、結局メシ食ってきただけかよォ」
心配させんなよな、と続けたのは青木だった。一歩が沢村に拉致同然でつれていかれた後、立腹した鷹村の矛先はいつもどおり彼だったとみえる。
一歩がジムをあとにした時よりも、青木はずっとぼろぼろの状態だった。あまりにもな様子に一歩はうっと小さく声をもらした。遠慮がちに謝罪すると、青木は「まったくだっての、とにお前のせいだかンな!」と一歩を小突いた。
「にしてもアイツ。いったい何のつもりだったんだ? 沢村って名古屋でトレーナーしてるだろ。東京に用事があってそのついでとか…なんか聞いてないのか?」
「いえ、とくに何も…。あ、沢村さんチョコパフェとか好きみたいです」
「いや、それはどうでもいいだろ」
はーっとため息を吐いた木村がわざとらしく頭をかかえるふりをする。一歩もすこしばかりうなだれて「本当になんだったんでしょう」と呟いた。
憔悴しきった様子に一同は「お疲れさま」とねぎらうことしかできなかった。
ちなみにまったくの余談だが、沢村の歩み寄りの結果、ふたりはこれより二年ほど後にめでたくお付き合いに発展することになる。そしてその頃になってようやく一歩は「あれってデートだったんだ」と知ることになるのだった。