01:妥協恋愛継続中 2011年6月4日
「一歩、こっちむけよ」
水槽の中で優雅に泳ぐアロワナに見入っていた一歩がきょとんとした表情を見せた。木村が水槽のガラスに右手をついて、一歩の後ろに立っていたからだ。
ガラスには、困り顔の木村がところどころゆがんでうつっている。
「どうしたんですか木村さん」
「んー。ちっとなあ、考え事してたのよ」
軽く水槽にふれていた右手が自然な動作で木製の家具へと移動する。木村の左手はもとから一歩の左側につっかえぼうのように置かれていたので、一歩はそのまま木村の身体と水槽とで挟まれるかたちとなった。息苦しくはないが圧迫感のある狭いスペースでは、身じろぎも許されない。
狭まった居場所で「何をですか?」と一歩が小首をかたげる仕草をみせた。
水槽の中で身をくねらせる水草のようにおっとりとした動作だった。
「…せっかく恋人が遊びにきてんのに放っておくのももったいないか、と思ってさ」
ふくみをもたせた木村の言葉に一歩が肩をすくませた。木村の眼下には無防備なうなじがさらけ出されている。顔をよせると、一歩の耳朶が目にはいった。ほんのりと色づいている。
「こっち、向いてくれねーの?」
木村の唇がかすかに一歩の髪に触れた。息遣いがそのまま伝わる距離感に、一歩がそわそわと身体を動かした。なんとも居心地の悪そうなその様子に、木村が細いため息をこぼしていることを当の本人である一歩は気づいていない。
わかっていないものを手取り足取り教えてやれるほど木村も大人ではなかった。少し目を細めてわずかに眉をひそめることが木村にできる唯一の合図だった。
木村と一歩が付き合いはじめて半年ほどが経つが、一歩が木村の部屋を訪ねた回数はけして多くない。それこそ片手であまってしまうほどにしか二人きりという状況を満喫していなかった。
家業のある実家に住んでいる一人息子同士だ。互いに忙しいということもある。スケジュールを調整したところでずれていく始末だ。
時間的なすれ違いには当に慣れていた。しかし慣れたと言っても何も思わないということではなかった。
すべてを投げ出せるほどには若くはないので互いに現状で甘んじるほかないのだろうが、それにしても素っ気無さすぎやしないかと木村は思っていた。まだ期間的には羽目を外して楽しむべき時だろうに。
まあ、それも仕方ないんだけどな。
木村がもう一度ちいさなため息をこぼすのとほぼ同時に、一歩がうかがうように木村の方をふりかえった。苦笑を悟られないように木村が口角をあげなおすと、一歩が「木村さん」と呟いた。
返事を求めるような言葉ではなかった。ただそえられただけの呼びかけに木村が一歩をじっと見る。
一歩の目元はうっすらと赤らんでいた。まつげが心細そうに震えている。意を決して、というように一歩が顔をあげるので木村は囁くように一歩の名前を呼んだ。
それにもたいして意味はなかった。
互いの顔が近づいて、唇がふれる。キスをするその瞬間に一歩はいつも眉をひそめた。耐えるような表情だ。伏せ目がちの目がまぶたでしっかりと隠されて、一歩の本音ごと覆っていく。
まるでそこから愛情がこぼれてしまったかのように眉がぴくりと動きだし、すうーっと眉間にしわが刻まれるのだ。
木村はすでにそのタイミングすらつかんでしまっていた。
二人の間であまったるい恋人の雰囲気がそれとなく浸透していき、ジムの先輩と後輩という役柄では片付かない空気が濃密になっていく。ぐっと色っぽい流れになると、どちらともなく顔をよせあう。その一瞬に、一歩はちいさくひらかれた唇とはうらはらな拒絶を示すのだ。
唇がはなれれば、どこかほっとしたような表情で一歩は木村を見つめる。うるんだ瞳が猫のように細くなる。余韻でそうなるのか、はたまた安堵からそうなるのか。木村には判断のしようがなかった。
「…嫌だったか?」
舌も入れないキスは数えない。そう言って恋愛をおごっていた頃の自分に失笑つつ、木村が一歩の頬を両手でつつむ。
一歩がわずかに顔をふって、口をひらいた。
「嫌じゃないです」
その言葉のどこまでを信じておけばいいのか、それすらも見当がつかない事実に、木村はいつも打ちのめされるのだ。