第五話
ジムのシャワー室で何とか一歩を押さえ込む事に成功した木村は、かすかに混乱の残る頭でひとまず場所を変えた方がよさそうだなと考えをめぐらせていた。
一歩の方はといえば、木村の腕の中で身体を強張らせ、息をひそめるようにじっとしている。悲鳴をあげていたことが嘘のように黙り込んでいた。木村も一歩にかける言葉を模索しているのか、口をひらかなかった。
正確には、原因や理由を質すだけの余裕が彼にもなかったということにすぎない。とにかく咄嗟のことだったので、どうしてこんなことになっているのかなどよくわかっていなかったのだ。
しかし真っ青な唇を戦慄かせている一歩は、木村が何も言わないことに安堵したようだった。直接肌につたわる浅い呼吸は先ほどよりもずっと落ち着いている。そろりと顔をのぞいてみると、頬を軽くひっぱたいても焦点のあわなかった眼が、しっかりと状況を見据えはじめたように見えた。
途端に一歩の顔から血の気がひいていった。まるで引き潮のようだ。ざーっという音すら聞こえそうで、木村は自分の嫌な予感が的中するだろうことを嘆いた。
一歩は、木村が駆け寄ったときよりも青い顔をして「しまった」という表情をうかべたのだ。
「…ま、とりあえずさ。このまま座ってんのもなんだし、落ち着いたんならちゃっちゃと外出ようぜ」
有無を言わさない響きに、一歩が首をすくめた。
一歩の背にまわした手のひらで木村は幼い子供をあやすように軽くたたいてやった。手慣れたしぐさでぽんぽんと二、三度くりかえしたあと、ゆっくりと一歩の身体からはなれていく。
一歩は、あきらかに何かを恐れているようだった。
木村が口をひらく。
「一人で立てるか? 手ぇ貸すか?」
「だ、大丈夫です。ひとりで立てますから…」
覇気のない声だ。か細くゆれている。
木村に悟られたくない一歩は、彼の言葉にしたがって普段通りに振舞おうとした。しかし割合はっきりと返事をかえすというのに、すぐには立ち上がろうとしなかった。おりたたまれた脚がまだふるえている。その様子に木村が目を眇めた。
木村は、一歩が立ち上がれないことを見越していた。意地の悪い聞き方を選んでしまった事に、木村の良心が痛んだ。
「無理するなよ。肩ぐらい貸してやっから…」
一歩が俯いてしまったのでどんな顔をしているのか、木村からはうかがうことができなかった。一歩? と呼びかけても彼は肩を震わせるばかりだった。
水がはじける音だけが木村と一歩の鼓膜をうった。互いの息遣いすら消えてしまったシャワー室に、重苦しい沈黙がおりる。
心理的には長い静寂だが、実際にはそうたいしたものでもないのだろう。予想もしなかった展開に、木村の体内時計は若干のくるいが生じているようだった。一歩が暴れだしてからどのくらいの時間が経過しているのか、まったく把握できていない。焦りが木村を苛立たせた。
このままではらちが明かない。
ため息をついた木村がもう一度一歩の二の腕をつかもうと手をのばすと、一歩はかすれた声で「何でもないんです」と呟いた。手足を胴にひきよせて小さくなろうとするしぐさに、木村は「ああなるほど。これ以上は踏み込まれたくないってわけね」とピンときた。その解釈のしかたはあながち間違っていないらしい。
一歩は木村の追求を拒んでいるように見えた。
しかしそれはできない相談だった。一歩が正気を失った余韻はいたるところにあるのだから、今さら見て見ぬふりはしたくない。そもそも前後不覚に陥った証拠が、木村の腕や肩に残っている。一歩の爪がくいこんで皮膚が削れた痕は、思いのほか深くやられたせいか、シャワーがあたるたびに沁みて、じいんと疼いた。
「何でもないってこと、ないだろ?」
ぱっと顔をあげた一歩が「あ…」と呟いた。ゆれる瞳が、木村の指先を追った。
卑怯染みているような気もしたが、この際しかたがない。緊急事態だと自身に言い聞かせて、木村はあえて一歩の注意を自分の傷に向けさせた。少しばかり胸が痛むが、さりげなくそれの経緯を口にして木村は一歩をせめた。
そうでもしないと一歩は口を割りそうにないのだ。
「まきこまれたって言うのはちょっと大げさかもしれないけどな…無関係ってわけにはいかないだろ?」
一歩が眉根をよせて下唇を噛んだ。痛みに耐えるように、涙をこらえるように顔をくしゃくしゃにして「ごめんなさい」とくりかえす。いったい何に対しての謝罪なのだろうか。瞬間的に突きつけてしまいたい己をおさえ、木村は気にするなとだけかえした。それ以上喋ってしまえば、余計なことまで口をすべらせてしまいそうだったからだ。いくらなんでもストレートに下世話な話をするには、ここは公すぎる。
一歩は気づいていないが、木村は動揺を持て余しているのだ。頭のすみ、喉の奥、口の中。いたるところがざらついて落ち着かない。ど、ど、ど、と胸のうちを駆け巡る血液はすっかり冷えきっていた。狼狽しているという自覚はあるが、それが何をきっかけに爆ぜてしまうかわからない苛立ちがずっとくすぶっているのだ。
指の一本いっぽんがゆっくりと首にまとわりついてくるような、妙ないやらしさがそこにはあった。
一歩の身体は木村の予想どおりに誰かに嬲られているのだろう。おそらくその誰かとは、女ではなく男のはずだ。合意でないことも、一歩を見ていれば想像に難くなかった。
ずれたタオルの向こう側を木村がのぞき見たのはほんの一瞬でしかなかったが、それで十分だった。くっきりとした歯型を木村は見逃さなかった。
木村は、かつて付き合っていた女のことを思い出した。セックスの最中にかるく噛まれると興奮する女だった。女のやわい身体は簡単に壊れてしまうから、木村は遠慮がちに力をこめた。そっとあま噛みを繰り返し、ようやくついた痣はうっすらとしたものだった。桜の花びらにも似た色に興奮を覚えたのは、今も忘れていない。
痛くないといっていた彼女だったが、三日ほど経って抱いた時には驚いた。うすく色づいていた程度の痣が青と紫の斑に変わっていたからだ。
あの時見た自分の歯型と大きさは同じぐらいだったが、一歩の身体にのこされたものは愛撫のいっかんというには酷すぎるものだった。あれは、殴打されてできた内出血の上に施されたものだ。点々とした黒い痣は指の痕だろう。暴行のみでつけられたような、単純なものではなかった。肌の色がすっかり変わってしまうほどに、誰だかわからない人物が執拗に苛んだのだ。
木村のてのひらがじっとりとしめった。自分の両腕が、まるで見えない男の手のように見える。一歩が脅えたのはそういうことだろうかと思うとやるせなかった。木村は、自分の目じりに熱があつまっていくのを感じた。行き場のない怒りがこみ上げてくる。誰に対するものなのかさだかではない、激しいものだった。
一歩の身体にあったものは、乱暴の痕跡だ。その意味はわかるが、木村にとって馴染み深いことではなかった。そういうものはだいたい手持ち無沙汰でつけたテレビで、たまたまやっていたニュースなんかで流される事件でしか触れてこなかった。すくなくとも身近におきていいものではない。
ふたりにうちつけるシャワーの飛沫は、うちすえるようなものではないというのに木村は息苦しさを感じた。
とにかく、他の人間がからんで状況が悪化することだけは避けなくてはならない。まだ一人では歩くことさえままならない一歩を支えながら、木村はシャワー室を後にした。
シャワー室を出るとすぐに、木村は急いで自分のロッカーへと移動した。肩をかし、引き摺るようにして連れ出した一歩は、壁際にぽつんと置いてあったベンチに座らせてある。
バッグの底からまだつかっていないスポーツタオルを引っ張り出して放り投げると、一歩はきょとんとした顔をしてみせた。それがいやに場にそぐわないので、ようやく小康してきた木村の胸がまた騒ぎ出した。
口元をひきしめて、木村が一歩を呼ぶ。命令をするかのような語調だった。木村の視線をうけて、一歩がわずかに身を縮ませた。
「急がないと誰かくるかもしれない。なるべくはやく準備してくれよな」
ところでさ、おまえの荷物どこにあんの? と聞きながら、木村はロッカーの中にしまったアナログの腕時計に視線を走らせた。4時20分ごろを示しているそれは、ゆっくりと、しかし確実に針をすすめている。
一歩がそのロッカーの隣ですと指をさしたので、木村は自分が着替えるよりも先に一歩の荷物をとりだして本人に手渡した。
「一人で着替えられるか?」
歯切れは悪いが、一歩が「はい」と返事をした。それを聞いた木村はすぐさま自分の仕度へとりかかった。
木村が思っていたほどには時間は経過していなかったが、状況は相変わらずだ。まだあがりの時間帯ではないといっても万が一ということがある。練習生や青木ぐらいなら適当にごまかすこともできるが、木村にとって唯一推し量ることのできない鷹村が入ってきた場合、この状況が好転するのか悪化するのか、正直どうなるのかなどわかったものではなかった。
ただでさえ一歩は今も態度に脅えをにじませているのだ。これ以上厄介なことになるのは避けたい。それが、木村の本心だった。