第二話
「あ、のね。ボク、宮田くんにも言ってないことがあって…」
うつむいたまま、握り締めた拳を太腿におしつけるようにしている一歩が話し出す。普段ならば口をはさむ宮田も黙って先を促した。一歩は一度深呼吸をした。おもむろに、左腕のそでを肘よりも上にまくりあげる。
いぶかしむ宮田の目にさらされたのは、少し大きめの痣だった。ちょうど豹紋に似ている。
「この頃、変なことばかり続くんだ」
宮田がわずかに小首を傾げた。一歩はそれを問いかけと受け取ったのか、ちいさく頷いて口をひらく。真っ青な唇を震わせて言葉を紡ぐ一歩の様子に、宮田は言い知れぬ悪寒を覚えた。
「なんだよ、変なことって」
「生まれつきの痣なんだけど、変なかたちしてるよね」
これ、年々色濃くなってきてるんだ。はじめはほとんど肌の色と変わらなかったんだけど、気がついたらこんなに黒くなってて。
妙にゆったりとした口調で一歩が続ける。左腕の痣に軽く爪をたてた一歩は泣き出しそうな顔をひきつらせて、笑ってみせようとした。
「電気、消してもらってもいいかな」
「…電気?」
黙ったまま頷く一歩は、宮田が部屋を暗くするまで続きを話さないという態度のようだった。互いに膠着したままでは埒が明かないと判断した宮田がしぶしぶ立ち上がって、ダイニング横のスイッチを押しにいく。
「全部消せばいいのかよ」
「うん。そうすれば分かりやすいと思うから」
分かりやすい? 一歩の言葉にひっかかるものを感じた宮田は、心の中でそう繰り返した。
宮田が一歩に聞きたいのは、倉庫で何が起こったのかだ。脈絡もなく痣の話しをはじめたかと思えば電気を消してくれと言い出す一歩に、宮田はわけがわからなかった。
かちっという音のあとに部屋の照明がすべておちる。「これでいいんだろ?」とため息まじりに言って、宮田は一歩の方へ身体をむけた。その瞬間、宮田が目を見開いた。
薄暗い室内にふたつ、わずかに輪郭のぼやけたグリーンの光がういている。
思わず息をのんだ宮田は、咄嗟に部屋の明かりをつけた。蛍光灯がすぐさま部屋を隅々まで照らす。宮田は、今にも破裂しそうなほどに騒ぎ立てる心臓の音を聞いた。自分のものだというのに、胸に耳を押し付けているかのように直接的に拍動がわかる。息をするたびに冷えていく指先が、震えながらスイッチからはなれた。
顔を強張らせている宮田に、一歩は困ったような笑みをはりつけて「やっぱり気持ち悪いよね」と言った。
宮田は驚いただけだと言おうとして開きかけた口を閉じた。一歩が黙ったまま宮田の言葉を待っているようだったので、代わりに「いつからなんだよ」と続ける。
「気がついたのはつい最近。でも前からかもしれないし、よくわからないんだ」
うつむいてちいさく一歩が呟いた。ごめんね、という謝罪は棒立ちになっている宮田にもとどいた。自分が立ったままでは一歩も話しづらいだろうと気づいた宮田が、先ほどまで座っていた場所に戻る。
「痣が濃くなったことと、眼が光ること以外にもあんのかよ。変なこと」
「…これがはじめてじゃないんだ」
一歩の言葉に宮田が顔をあげた。
「どういうことだよ」
すぐさま聞いた声は興奮しているせいか変に上擦っている。
「5月に入ってすぐ、全国的に話題になった事件あったよね? 宮田くん、覚えてるかな」
「それとこれと何が」
関係しているんだという宮田の言葉は声にはならなかった。一歩がぎゅっと下唇を噛んだあと、ゆっくりと口を開いたからだった。
「あのときもね。ボク、いたんだよ。あの現場に…!」
「だからってあんなのお前に関係ないだろ!」
泣きわめくように叫んだ一歩に、宮田も声を荒げた。悲痛な顔で涙をためている一歩に、宮田の胸がしめつけられる。
「だっておかしいじゃないか! ぜんぶおかしいんだよ! 暗闇で眼が光るのだって、味覚が変わったのだって変じゃないか!」
宮田の方へ上体をよせるようにして一歩が続ける。堰を切る様にして次々と言葉が出てくるのを、宮田は顔を顰めて受け止めた。奥歯を噛みしめていないと、馬鹿げた事を言いそうな一歩を怒鳴りつけてしまいそうだったからだ。
「それに、ワンポがね。ボクを見て吼えるんだ。それも知らない人に吼えるような感じじゃないんだよ。鼻面にしわよせて、牙を剥きだしてとびかかろうとするんだ」
宮田は自分を落ち着かせるために目をつむってソファーの足に背をもたれた。さっきから冷や汗がとまらなかった。
瞼をとじて、一歩の家で飼われている白い大型犬を思い出す。宮田はワンポのことを誰にでも愛想のいい懐こい犬だと記憶している。
一歩は自分の両手のひらに視線を落としながら続けた。
「それでね…。ボク、何をしたと思う? この手で、ワンポの首を絞めたんだよ…!」
両手を胸元へぐっとひきよせた一歩が、とうとう涙をこぼした。背をまるめてうずくまる一歩の顔は宮田には見えない。
大粒の涙がぽたぽたと絨毯へ落下していく。
「ボクが、殺したかもしれないんだ…!」
「そんなことあるわけないだろ!」
一歩の言葉に、宮田は咄嗟に手をのばした。一歩の二の腕をつかまえて強引にその身体を引き起こす。宮田の勢いに、一歩の顎があがる。真っ赤に染まった頬にはいくつも涙の流れたあとがあった。
泣きじゃくる一歩をつかまえて、宮田はぐいぐいと一歩の身体をおした。揺すられるたびに一歩の目からぱっと涙が散っていく。
「人間わざじゃねえんだ! お前のはずがないだろ! よく考えてみろよ!」
「じゃあ人が獣に変わるなら!? ボクが獣になるのならつじつまがあうじゃないか…!」
「ッ…! 人が、獣に変わるかよ…!」
噛み付かんばかりに宮田が一歩に顔を近づけてほえたてた。自分を睨みつける宮田に気圧された一歩が、わずかに息をのんだ。その隙をついて宮田の両手が一歩の背中へとまわる。力任せに抱きすくめられた一歩が眉間にしわをよせた。苦し紛れに首をのばして、逃れようと頭をふるう。
「は、はなして…! はなしてよ宮田くん!」
宮田は抱きつぶす勢いで拘束を強める。胸板と両腕にきつくはさまれた一歩の声はみっともないほど震えていた。
「危ないから、きみを殺してしまうから…!」
「お前はオレを殺さないし、誰も殺してなんかねえよ!」
宮田は、この両手をふりほどかれてしまえば一歩にはもう二度と会えないような気がしていた。胸の奥とも脳の奥とも知れない不確かな予感に背筋が凍りつく。一歩が獣に変わるかどうかなどということも、猟奇事件の真相ももはや宮田にとってはどうでもいいものだった。とにかく一歩さえ無事ならそれで良かった。
「…本当にお前がやったんだってわかったら、オレが殺してやるから! もう黙ってろよ…」
頼むから黙ってくれよという宮田の声は、嗚咽まじりにしゃくりあげている一歩の声よりもか細いものだった。