Unrequited Love
「千堂さんっ」
控えめながらもはっきりと名前を呼ばれたので、千堂武士は振り返った。猫のようにきゅっとつりあがっている千堂の目がまあるくなる。千堂の唇がちいさく動く。幕之内、と呟いた声は、ぱたぱたと走りよってくる一歩の上履きの音でかき消された。
立ち止まった千堂の前に、小走りでやってきた一歩が立つ。結構な距離を走ってきたのか、一歩は呼吸をととのえるために深く息を吐いた。はあ、とこぼされた吐息には熱がこもっている。
彼女の胸元に視線を落ち着かせてしまっている事に気がついて、千堂は慌てて目をそらした。
「なんや」
ぶっきらぼうな一言がするっと出てしまう。
「あの、きのう、バンテージがないって言ってましたよね? ちょうど備品の整理してたら見つけたんです。多分見学にきた子たちに貸してあげるものだから、そんなに使い込まれてないし」
急場はしのげるかなって、と一息に話した一歩はごそごそと自分のスカートのポケットをまさぐった。一歩の動作にあわせてスカートの縁がひらひらとゆれる。
「はいっ。これどうぞ」
「…おおきに」
ぶすっとした表情のまま、千堂は一歩からバンテージを受け取った。ちらりと一歩をうかがえば、楽しそうに笑っている。手渡されたバンテージを握り締めた千堂は、そのままズボンのポケットに拳ごと突っ込んだ。
「あ、千堂さん。柳岡先生が今日は鴨川の会長さんが見えるから基礎練から真面目に参加しろって」
「ワイ面倒なんは嫌なんやけどな」
そう言わないでくださいよ、と一歩は言った。ほがらかな表情に千堂もついつい表情がゆるむ。
高校ボクシングではそこそこ有名な千堂武士相手に、いたって普通に話しかけられるマネージャーは幕之内一歩ぐらいだった。それはなにも千堂という男が怖いから、というものではなく、色恋沙汰になってしまうためである。
ちゃめっ気と愛嬌のある千堂は、クラスメイトで同じ部活に所属している宮田一郎よりも人気が高い。どちらかと言わなくても女子相手に冷たい態度ばかりの宮田より、おしゃべりな千堂の方がとっつきやすいのだろう。ボクシング部の女子マネージャーになりたがる女の子たちは大抵千堂狙いだった。
千堂も千堂でくるもの拒まず、というスタンスだったので、一時期不穏な空気がボクシング部を包んだ。さすがに陰湿ないじめにまでは発展しなかったが、女同士の水面下の争いを見かねた顧問の柳岡が千堂に灸を据えたのは、記憶に新しい出来事だった。
そうして白羽の矢が立ったのが一歩だったのである。
千堂をめぐる女子マネージャー達の雰囲気が険呑になっていた時も、一人蚊帳の外状態であったし、何より一歩はボクシング部主将の鷹村守と付き合っていた。しかもこの二人の関係が中学時代から続いているとなれば、今さら千堂にたいして男性を意識することもないだろう。そうした柳岡の判断で、ほぼ強制的に一歩が千堂の専属マネージャーのようなポジションにおし込まれた。
この件について一歩は一言も文句を言わなかったし、鷹村も目をつぶったため、鷹村が卒業してからも当然のように一歩は千堂に関する用事で走りまわることが多かった。
確かに、千堂のまわりの女性関係は目立たなくなったが、柳岡はひとつだけよみ違いをしていた。
千堂がとっかえひっかえを繰り返していたのは、単に異性に興味があっただとか、惚れっぽいという理由ではなかった。
千堂武士は幕之内一歩の事を好いていた。
少し舌足らずな喋り方も、黒目がちでおおきな瞳も、男の子のように短いショートカットの髪も、ちょっとしたことですぐに赤くなる頬も、ちいさな唇も、千堂はすべて好きだった。
あますことなく彼女が好きだった。ただ、すでに人のものだったというだけで、彼は一歩に恋をしていた。
叶わない恋を忘れる方法は、人によってさまざまだろう。千堂の場合は、他に目を向ける事だった。
幸い千堂はルックス的にもそうした出会いに苦労するタイプではなかったので、千堂としては試しに付き合う事に抵抗はなかった。いつまでたっても一歩以上に好きな女性ができない事に少しだけ罪悪感はあったものの、仕方がなかったのだ。
尊敬する先輩の彼女を寝取るぐらいなら、女の敵になる方がましだった。
形は違えど、宮田も似たようなものだと千堂は思っている。彼は千堂とは違って、他の女で紛らわせようとはしなかっただけで、結局鷹村から一歩を奪えないところは千堂と変わらない。
千堂は窓際の壁に背をあずけて、一歩の方を見ていた。
これから冬に向けて冷え込んでくるだろう風が、彼女の短めの鬢をあそんでいる。ちらちらと舞う毛先を左手で軽く押し付けながら、一歩は千堂に声をかける。
「一年生の子たちも今日はそろうみたいですよ」
柳岡先生が鴨川さんが来ることは伏せてろって言うんです。みんな休みたがるからって、と言う一歩に千堂は頷いてみせた。
「まあ、ごっつい練習させよるからなァ。ワイかて慣れるまでしんどかった。…せや、今日は宮田もくるんか」
二週間ほど前の練習試合で軽い捻挫を負った宮田は、ここしばらく部活に顔を出していない。何度も同じ場所を怪我しているだけに、すでに癖になっているのではと大事をとって休んでいたのだ。千堂としては減らず口をたたいてくる相手がいないとつまらない。
一歩は、なんだかんだで仲がいいんだなあと笑った。
「鷹村さんもくるから、顔を見せにくるって言ってました」
瞬間、千堂の目がわずかに見開かれる。一歩は、頬を染めている。幸せそうな彼女に、千堂は言葉がでない。
「遅くなってからですけど、木村さんも合流するって」
久しぶりに皆でご飯とか食べないかって誘われてるので、良かったら千堂さんも来ませんか? 宮田くんもくるって言ってたし、と続ける。千堂は、ちいさく「さよか」とこたえた。
「じゃあ木村さんに、みんなくるって言ってたって伝えますね」
「おー。ワイのリクエストは焼肉やいうたって」
分かりました! と元気よく返事をかえした一歩は、またぱたぱたと走り出す。ややかげってきた日に、一歩のセーラー服の襟が影をのばす。千堂は廊下にうつった一歩の影をずっと見つめていた。
彼女の後姿に、絶対に聞こえないタイミングで「すきや」と呟くのは、もう慣れてしまっていた。