Moechtest du meine frau werden?
高校指定のジャージに着替えた一歩は、ボクシング部の練習場へと足を運んでいた。こころなしか歩みが遅いのは、彼女が部室から持ってきた救急箱とボクシング用品を積み上げるようにして抱え込んでいるからである。
元々釣り船屋の一人娘であるため、他のマネージャーよりも一歩は力仕事には向いているのだが、いかんせん彼女の豊満なバストは何かを抱きしめるのには向いていなかった。落とさないようにぎゅうっと腕に力をいれて持ち運びするにしても、非常に邪魔なのである。
「うー。横着したのは間違いだったかなあ」
ちょこちょこと進んでいる一歩の右肩からは、ショルダーバッグもさげられていた。部員に差し入れするドリンクを突っ込んで持ち運びするには便利なのだが、歩くたびに一歩の太腿にぶつかってきて歩き難い。こんなことなら他のマネージャーにも手伝ってもらえば良かった、と一歩は思った。しかし女性としては長身となる一歩よりも、ずっとちいさくて華奢な彼女達にお願いするには重過ぎる気がする。それに自分で持っていってしまう方が早い。
結果として一歩がひとり、いつも大量の荷物を運搬することになっていた。
校舎と体育館をつなぐ渡り廊下には段差があるため、一歩は視線を足元にさげてそろそろとつま先をおろした。その瞬間、なにか大きなものにぶつかった。予期しない衝撃に一歩が抱えていたボクシング用品が落ちそうになる。あっ、と一歩が声をあげるのと同時に、宙に舞った練習用のグローブが空中でぴたりととまった。
大きな手が、紐を掴みあげている。
「何やってんだテメエ」
「た、鷹村さんっ」
一歩が林檎のように頬を染める。鷹村はそうした様子の一歩を気にとめるふうもなく、彼女が抱えていた荷物をひょいと左腕でもちあげて、今しがたタイミングよく掴み取ったグローブをその上にのっけた。おろおろとしている一歩の制止も聞かずにのしのしと歩いていく。広い背中をおいかけて、一歩は小走りについていった。
「お、お久しぶり…です」
ちらちらと鷹村の顔をうかがうようにして視線をよこす一歩に、鷹村は右目をすがめた。にやりと口角がひきあがる。
「ほとんど毎日顔見に行ってんじゃねえか」
鷹村は悪戯が成功した子供のように笑った。ますます顔を赤くした一歩は俯いて、しきりに指をもじもじさせている。
「だっ、だって学校では久しぶりじゃないですか」
少し拗ねたような物言いだった。そっぽを向いて、唇をわずかに突き出して喋る一歩に、鷹村は満足そうだった。
高校在学中にすでにライセンスを取得していた鷹村は、名門大学からの直々の推薦もすべて断って当然のようにそのままプロの世界へと足を踏み入れていった。危なげなくその年の新人王を奪取し、土付かずの連勝街道を歩んでいる。今一番注目されている若手のボクサーと言えた。
そんな鷹村がボクシング以外で働いている場所が釣り船屋幕之内である。学生の時分よりも一緒にいられる時間が少ない事や、一歩の母親が二人の交際に対して肯定的である事を踏まえ、鷹村から寛子に働かせてもらえないかと打診した結果だった。元々鷹村は中学生の頃から一歩と一緒に釣り船家業を手伝うこともあったので、スムーズに事は進んだ。最近では鷹村がプロボクサーになった事もあって常連客に若旦那と呼ばれたりしている。
そうした経緯もあり、実は一歩は今朝も鷹村と顔をあわせているのだ。ほとんど住み込みのようなものなので、逆に言えば顔を見ない日は鷹村の試合が近い時ぐらいのものだった。
だというのに、白々しくも「久々に会いました」という挨拶は、実のところ鷹村にとって非常に気に食わない一言だった。
一歩はなにかにつけて周囲に関係を隠したがる癖がある。彼女とは違い、むしろ見せびらかしたい鷹村としてはそうした奥ゆかしい態度の真意が汲み取れないのでやきもきする原因になるのだが、からかえばむきになる年下の彼女が可愛いので笑って許す事にしていた。
ときおり鷹村がつむじを曲げるのは、たいてい積み重なった不満による。
「おい、一歩。そういやあ、木村に聞いたけどよ」
わざとらしく鷹村は口を開いた。一歩は俯いていた顔をぱっと上げ、鷹村の方へ顔をむける。
「今日の夕飯、皆で食うんだって?」
「あ、はい。木村さんに誘われたので」
さっきメールしたところです、と言いかけて一歩は口を閉じた。やや太めのまゆじりをさげて困ったような表情を浮かべる。ゆたかな睫がわずかに震えている。鷹村は先を促すようにあごをしゃくった。
「あの、鷹村さんも来るんですよね?」
「ん? オレ様は減量もあるからよ。メシによる!」
鷹村の返事を聞いて、一歩は木村へ送ったメールを思い出した。たしか、千堂がリクエストした焼肉案が通ってしまっている。
ことボクシングに関しては自分に厳しい鷹村のことだ。例え皆と一緒に食事に行ってもはめを外しすぎないだろうし、恵まれすぎた体格ゆえの節制の難しさは、彼が一番わかっている。しかし、一歩は鷹村に気をつかわせるのが嫌だった。大柄で横暴で理不尽と、散々に言われてしまう鷹村だが、その実彼が誰よりも不器用で優しい事を一歩は知っていた。きっと皆に気を使わせないように、気づかせないようにするだろう。
ぐっと胸をはって姿勢を正すと、きりっとした顔つきになった一歩が意を決したかのように鷹村を見据えた。
一歩が追いついてからは歩幅をあわせている鷹村も、それにあわせてゆっくりと立ち止まる。
「鷹村さんっ!」
「おう。あんだよ」
「今日、うちでご飯にしましょう!」
鷹村が目を見開いた。ちょっとしたいじわる発言で、こうも分かりやすく別方向の答えを出されるとうっかり面食らってしまう。鷹村は、予想外な言葉に噴出しそうな自分を懸命におさえこんだ。
「つってもよォ。お前も皆と行くんじゃねえのかよ」
「いいんです。私がいたってたいして役にも立たないですし」
鷹村さんといっしょにご飯食べる方がいいです、と一歩が続けた。妙に力の入った口調とガッツポーズのように胸元でぐっと握られた拳が勇ましい印象を与える。
鷹村は無言で一歩のショルダーバッグをひょいと持ち上げた。マネージャーの仕事を手伝うどころか奪ってしまった鷹村に、あわてて一歩は声を出す。
一歩をおいていくように早足になった鷹村を追って、一歩は駆け出した。
「自分で持てますから…!」
「持ってやりたくなったンだよ。黙ってオレ様に甘えとけ」
ボクシング部の練習場に着いた鷹村が、足で扉を蹴飛ばして「木村ァ! 今日の晩飯、オレと一歩はパスだ!」と叫んだのは、言うまでもない。