Series*

Das beste Ehepaar

「なんだってここにしちまったんだよ」
 そう言ったのは鷹村だった。一歩は思ってもみなかった言葉に目を見張った。すこしだけ鼓動がはやくなる。
 桜の花も四割ほどが散って、ちらほらと真新しい緑の葉が枝からのぞくようになった4月に、一歩は鷹村が通っている高校の入学式に出席した。

 今はちょうど、その帰り道である。



 最初のホームルームで担任の自己紹介が終わり、校内施設の説明が簡単にすまされた後、一歩は誰一人として顔見知りのいないクラスで頬を紅潮させていた。高校生になったこと、これからの学園生活への期待や緊張で皆同じように明るい表情をしていたが、一歩だけはひとり、理由が違っていた。
 鷹村が、ここに通っている。もしかしたら今一歩が腰を落ち着けている椅子に座った事があるかもしれない。そう考えると彼女の胸はうずいて、いてもたってもいられなくなった。せつなくなるほど、一歩は鷹村を好いていた。
 一歩が、鷹村について考えているときだった。教室の出入り口が騒がしかった。さっきまで各々がはしゃいでいたが、それとはまた別の空気を感じて、一歩が喧騒の方へと顔を向ける。クラスメートの男子よりも頭ひとつ分上背のある男が立っていた。遠巻きに、新入生の視線を集めている男が一歩に向かって声を張り上げた。
「一歩ォ! 今から帰えンだろ。おくってってやっからはやくしろよ」
 たいした荷物も入っていない新品の鞄をあわてて引っつかんで、一歩は席からはなれた。好奇の視線が彼女に突き刺さる。人に注目されるのが苦手な一歩は顔を真っ赤に染めて俯いた。
 恥ずかしさと驚きで、舌がうまく動かない。
 返事もなく目の前に立った一歩を気にせずに鷹村は話しかける。
「忘れモンはねえよな。んじゃいくぜ」
 当然のように一歩から鞄を受け取って、鷹村は歩きはじめた。状況が飲み込めていない一歩は、彼の後ろを慌ててついていく。自分の荷物くらいもてるとかもってくれてありがとうとか、鷹村は授業をどうするのかと言いたいことは山ほどあるのだが、そのどれもこれもがまったくかたちにならなかった。

 一歩が通う事になった高校は、私立高校であるため敷地がかなり広い。公立と違ってさまざまな分野に特化する事のできる私学の中で、一歩が在籍しているのは特別進学支援クラスだった。いわゆる、高校を卒業してからの進路において、大学や短大などを目指す生徒達の教室である。新入生の時点ですでに理系と文系に分けられており、一歩は理系クラスの一組に配属されていた。
 一年生の時は概ねその学年全体はひとつの校舎の中で勉強することになるが、二年に進級すると、スポーツ科と普通科ではすみ分けが行われる。校舎自体が別になり、同じ学校にいながらもクラスが違えば顔を見なくなるのだ。
 鷹村はスポーツ科きっての特待生だ。一年生の一歩とは校舎も違う。
「あの、鷹村さん。どうして私が一組だって分かったんですか?」
 鷹村から鞄を返してもらうことをあきらめた一歩が、そう聞いた。くりくりとして愛らしい目には、鷹村の顔がうつっていた。
「簡単なことじゃねえかよ。おまえ、頭良かったろ」
 鷹村は、鞄を持っていない右手で一歩の短い髪をくしゃくしゃとかきまぜた。つんつんと上にばかりはねてしまう髪を気にしているので、一歩は頬をふくらませて抗議した。
「やめてくださいよォ。ねかせるの大変だったんですから!」
「んー? 可愛くてこっちの方がいいだろうが」
 がははと笑い飛ばす鷹村に、一歩は頬を染めた。
 鷹村はいたって自然に一歩を可愛い可愛いと言うが、言われている一歩の方はいまだにこの言葉に慣れない。気の利いた事も言えないので、一歩はもうとちいさく呟くしかなかった。

「それにしてもよォ」
 なんだってここにしちまったんだよ、と鷹村は続けた。一歩は、自分が鷹村と同じ高校に入った事を鷹村が気に入らないのかなと思った。一歩は、たった一年と言えど鷹村とおなじ高校に通えることが嬉しいが、鷹村は違うのかもしれない。
 ぐるぐると嫌な方向へ考えはじめた一歩の表情は暗い。押し黙ってしまった一歩にちらりと視線を投げた鷹村は、きまり悪い表情で一歩の頭を撫でた。
「変なこと考えてンじゃねえよ。オレ様が言ってるのはなあ、なんでもっと良いトコに入ンなかったんだってことで」
 別に責めたりしてえ訳じゃねえ、と鷹村は言った。言葉が足りなくて悪かったなと、下唇を突き出すようにして続ける。
 鷹村がそういう仕草をするときはたいてい、気恥ずかしいときだと一歩は知っているので、胸をなでおろした。
「びっくりしちゃいました。ひょっとして嫌だったのかなあって思ってたから」
「んなわけあっかよ」
 勉強できるくせにバカだなというありがたくない言葉を受けて、一歩は控えめな笑みをこぼした。
「すみません。えっと、うち、母子家庭じゃないですか」
 鷹村は、右眉をぴくりとつり上げて一歩の言葉を待つ。昼飯時のため、住宅街を歩いている鷹村の鼻腔を料理のにおいがくすぐった。
「私立って公立より学費が高いんですけど、特待生制度がありますよね」
 進学とスポーツとにわけられるが、そのどちらにも似たような特待生制度がある。常に上位をキープさえしていれば、後は個人の能力によって免除される金額が変わる事を鷹村も知っていた。
「母さんには迷惑かけられないけど、鷹村さんと一緒に学校に行きたくて。それで勉強頑張ってたんです。そしたら思ったよりもできるようになって。担任の先生にも違う学校をすすめられたんですけど」
 やっぱり一緒にいたかったから、という言葉はちいさくなってしまったが、鷹村はしっかり聞いていた。
 一歩本人は自覚がないらしいが、彼女はときどき熱烈な告白を鷹村にしてくるので、鷹村としてはまいっていた。


 公衆の面前では、キスもできない。




「家帰って着替えたらよ、ちっと遊びに行こうぜ」
 家につくまでに行きたいところを考えろ、と言われて一歩は元気のいい返事を返した。
 鷹村はあいている右手で一歩の左手を掴むと、上体をかがめるようにして一歩のこめかみに唇を触れさせた。かすかな接触に一歩は気づいていない。これぐらいで我慢しといてやるかと鷹村が独りごちた。
 何か言いました? と一歩の目がうかがってくる。
「なんでもねえよ。いいから考えとけ」
「うーん。…あ、本屋さんとか行きたいかもです。ノートとか足りなくなるとこまるし」
「おう。今日は特別にオレ様が荷物持ちを買って出てやるから、なんか重いモンも考えとけ」
「え、そんな悪いですよ! それに私、重いのもつの得意ですから」
 大丈夫です、と言おうとする一歩の言葉を奪うように鷹村は口を開く。
「知ってっけどよ、重くてかさばるのは苦手じゃねえか」
 チチが邪魔してもてねえだろ、と鷹村はさらっと付け加えた。一歩は顔を真っ赤にして唇をわなわなとふるわせた。
「そ、そんなやらしい言い方しないでください! 気にしてるんですから!」
 おろしたての制服の胸元を隠すように右手を移動させて、一歩はきゃんきゃんと鷹村に抗議した。
「んだよォ。別に気にしなきゃいーだろーがよ」
「そういう問題じゃないですよ!」
 もう、鷹村さんのばか! と一歩はわめく。鷹村は、そうぷりぷりしてんじゃねえよと言って、つないだ手をぎゅっと握った。


[ end ]



掲載日2010年11月21日