Klar, warum nicht!
最高学年を送り出す桜並木に在校生が並ぶ。一学年十数クラスにまで及ぶ私立高校だけに、毎年壮観な光景として地元でも取り上げられている卒業式だ。地域の新聞には必ず掲載されるようなイベントなので、生徒達の間でも人気があった。
それだけに、さすがに在校生すべてが参列できるわけではなかった。一年生と二年生から学業成績や部活動の功績で選ばれて先輩の花道を飾るのである。ちいさい新聞といえども校内規模ではないので、醜態をさらすわけにはいかない。
参列者に選ばれることは在校生として大変に名誉なことだ。卒業式が近づけば内々に担任から打診を受ける。大概断りをいれる者もいないので定員割れは毎年おこらなかった。
一歩は引き続き次の学年でも特待生として進学クラスに在籍することが決まっているため、先月から担任に参列するようにと言われていた。もちろん二つ返事で一歩は頷いた。
今年は鷹村が卒業する。
もうそんな季節なんだなあ。一歩は、担任から話を持ちかけられた際にそう思った。ついこの間桜並木の下を歩いたのは一歩の方だった。その入学式から、もう一年が経つ。はやかったなと一歩は呟いた。
セーラー服のタイをきっちり結びなおして、一歩は宮田の隣に並んだ。
「なんか、緊張するね」
「別に」
俺らが卒業するわけじゃねえだろと宮田はそっけなく答えた。並木道の中腹は特に人気があるので人で込み合う。宮田が手をひいてくれなければ、一歩は最前列に立てなかった筈だ。ぐいぐいと引っ張られた手首は少し痛むけれど、一目でいいから鷹村を見たいという一歩の気持ちをくんでくれた宮田に、一歩は心から感謝した。
頬が紅潮している。宮田は、嬉しそうにしている一歩を見て人知れず目を細めた。
「千堂さんは今日くるのかな?」
「いやあいつはふけるって言ってた」
千堂も宮田も有望視されているボクシング部の部員だ。とくに今年の卒業生である鷹村がプロとしても期待されているだけに、部活動自体の注目度も高い。一歩よりも先に当然のように参列が決まっていた。
千堂は先輩にも好かれていた。それは鷹村とて例外なく、一歩から見ても千堂を好ましい男として扱っていたように思う。
鷹村と宮田は昔からの幼馴染のようなものなので、鷹村が後輩をかまうとなるとやはり千堂だったし、千堂も鷹村がいる高校を目指してわざわざ東京まで出向いてきている。彼が学生寮住まいなのも、ひとえにここでボクシングをするためだ。
ああ見えて気のつかえる千堂が、良くしてくれた先輩たちの晴れ姿を見に来ないことに一歩は違和感を覚えた。ほんの少しだけ表情がくもる。宮田は内心で舌打ちをしたい気分だった。
「…感激屋だから泣きたくねーんだと」
「あ。そっか…そうだよね、千堂さんこういうの弱いから」
控えめに笑う一歩は、千堂の気持ちを知らない。もちろん今隣に立っている宮田の気持ちも、彼女は知っているわけがない。宮田も千堂もずっと黙っていたのだ。自分たちの気持ちの矛先を一歩が知らなくても当然の事なのだ。むしろ彼女は知らなくていい。
それでもこうしてあからさまに望みがないことを示されると、宮田は友達というポジションを捨ててでも口にしたくなる。そうしてしまえば困るのは、自分自身だ。
宮田が黙っていることが多いのは、うかつに口を滑らせるのを恐れるあまりだった。
鷹村は知っていて黙認している。昔はライバルにすらならないと言われているように思っていた。宮田がそうでないことに気づいたのは最近だ。
鷹村は宮田や千堂のことをそれなりに認めている。だから何も言わない。一歩を泣かせるような真似をしないと信頼されているのだろう。まったく嫌な人だなと、宮田は思った。
しきりに胸元で両手をくんでいる一歩の背を軽くおしてやった。
「もう少し前に出ろよ。その方が見つけやすいだろ」
「あ、ありがとう宮田くん」
半歩ほど下がってスペースをつくってやった宮田に、一歩はぺこぺこと頭をさげた。彼女の指先は何かをつかんでいないと震えるようだった。力いっぱい指同士をからめている一歩の爪先は白くなっている。
宮田はその手を何度握り締めてやりたいと思ったか、正直わからなかった。今も多分これからもそう思い続けるに違いなかった。少なくとも高校三年間は間違いなく、自分も千堂も一歩を好きでいるだろう。そういう予感はあった。
「…一方通行はつらいよな」
この場にいない千堂にあてての言葉だった。宮田の呟きに、一歩がかるく振り返る。聞き取れなかったのか、うかがうようなそぶりだった。
「おい、そろそろだぞ。ちゃんと前見てろよ」
「う、うん」
やっぱり緊張しちゃうなあと一歩が溜め息まじりに呟いた。鷹村を思ってのしぐさを可愛いと思う前に、宮田は目を閉じた。
最初に花道を歩くのは生徒会役員だった。その後に進学クラスが続く。鷹村の所属するスポーツクラスは進学クラスの後になる。例年一番目立った成績のスポーツ特待生が最後を飾っている。
今年は随一の功績を残している鷹村が、大トリを務め上げることになるだろう。最後尾集団のさらに後にくるはずだ。
宮田の「鷹村さんはトリだからちゃんと見とけよ」という言葉に、一歩は言葉なく頷いた。
学校内ですれ違ったことがあるような顔が、一歩の前を通り過ぎていく。友達と肩をくみながら笑顔で門をくぐる者や、こみ上げる涙をぐっと堪える者もいた。
鷹村は、どんな顔でここまで歩いてくるのだろうか。それだけが一歩の胸のうちを占拠していた。
宮田はときどきぎゅうっと目をつむってしまう一歩のためにそれとなく鷹村を探した。長身で体躯に恵まれた鷹村は目立ちやすい。しかしスポーツクラスのラグビー部員やレスリング部もなかなかに立派な体をしているので、遠目では見分け難い。今日ばかりはトレードマークのトサカもおろしているだろうから、少々骨が折れる。
ほんの少しのりだすようにして視線をなげる宮田の視界に、赤い色がうつった。黒い群れの中にゆれる鮮明な紅につられて宮田の視軸がぴたりとそれを追う。顔は見えないが、鷹村しかいない。首からグローブをさげる男なんて彼しかいない。
「あっ、あれ! 鷹村さんだよね!」
宮田より背の低い一歩からも見えたようだった。ちらちらと自己主張する赤は、持ち主と同じように目立つ。宮田はああとだけ返した。一歩ははずむような声で鷹村の名ばかりを呼んでいる。
ゆっくりと鷹村が歩いてくる。ようやく声が届く距離まで歩いてきた鷹村の、そのもったいぶるようなスピードに宮田は声をはりあげて文句を言った。
「遅い」
「ターコ! 真打は遅れて登場するってもんだろーがよ」
宮田が言ってろよと呟いた。鷹村は地獄耳でひろいあげてふんと鼻を鳴らしたあと、首から提げていたグローブを宮田に投げつけた。胸元へと一直線で飛んでくるグローブを受け止める。ばしっと音が鳴ったので、一歩が肩をすくませた。
ずいぶんと使い込まれたグローブだった。鷹村の練習用のものだ。ところどころ毛羽立つようにほつれているそれは、鷹村の努力の証だ。
新しく買い換えていたので古い方は捨ててしまったと思っていた宮田は、驚いた。鷹村がそういうものを大切にするとは思えなかったからだ。
グローブには右と左にそれぞれ宮田と千堂の名前が書いてある。一言余計にもメッセージがそえられていた。
まさかこんなことをするためにわざわざとっておいたなんて言うなよ。宮田が顔をあげて言おうとした台詞をかき消すように鷹村がほえた。
「ちゃんと千堂とわけとけよ! オレ様からのありがたいプレゼントだ! なくしたら殺す!」
一歩は、宮田と鷹村のやりとりを呆けて見ていた。かわらない鷹村の笑い声に、緊張がほぐれていく。
鷹村が卒業するだけだ。不安とも心配ともつかなかった胸のつかえがおりる。一歩の唇がちいさく鷹村さん、とうごいた。目ざとい鷹村は音のない呼び声を逃さない。
「一歩ォ!」
名前を呼ばれて一歩がはっとした。やや俯き気味だった顔を上へあげる。バサリと覆いかぶさってきたのは、鷹村の学ランだった。
「テメーはオレのオンナなんだからしゃんとしてろ!」
学ランを投げ渡されるとは思ってもみなかった一歩は目を見張った。ついで言われた言葉を反芻して顔を真っ赤にした。わなわなと唇がふるえる。目じりにじわじわと涙がたまっていった。
鷹村は一歩の驚いた表情に満足したのか、にいっと口角をあげている。夜顔見に行くから待ってろよ、とだけ告げて一歩と宮田の前を通っていった。
台風のような男だと宮田は思った。言いたい事だけ言っていきやがった。宮田の指が、グローブに食い込む。勝てそうになかった。当にあきらめているというのに、こてんぱんにやられた気分だった。
一歩はぎゅっと学ランを握っていた。誰も奪えやしないというのに全身で頑なになっている。顔をうずめて、ちいさく肩をゆらして、きっと泣いているのだろう。その背中は宮田の手を求めていない。
この場にいない千堂は正解だったと、宮田は思った。
やっぱり鷹村さんはかっこいいなあという一歩の声はときどきしゃくりあげるせいで上擦っている。宮田は悔しいけどな、とだけ返しておいた。