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Grillenhafte Venus

 宮田くうん! と鼻にかかったような舌ったらずなしゃべり方には覚えがあった。
「なんだよ」
 くるりと振り返った宮田の表情はうんざりとしていた。しかしそれを目の当たりにしても一歩はひるまずに近寄っていく。一歩の満面の笑みに、退いたのは宮田の方だった。
「久しぶりだね! 宮田くんがくるなんてめずらしいなあ。今日はどうしたの?」
「手違いでうちに届いたビデオ、渡しに来たんだよ」
 鴨川ジムの出入り口で一歩に鉢合わせしたことに苛立ちつつ、宮田は提げていた紙袋を軽く持ち上げてみせた。月刊ボクシングファンの記者が手違いで川原ジムに届けたものだった。宮田自身はテープの中身を確認していないが、父親がなるべくはやく渡してやれと言うので、それなりに必要なものなのだろうと検討をつけたのだ。
 丁度アルバイトに行く前に鴨川ジムによればいい。
 宮田の予定としては紙袋を手渡したその足でバイト先に直行するつもりであった。しかし一歩がいるとなると、状況はすこし変わる。
「そうなんだ。鴨川会長は留守にしてるから、八木さんか鷹村さん呼んでくるね」
 中に入って待っててと言わんばかりの一歩に、宮田が口をはさんだ。
「お前が渡しとけよ」
「でも、折角きてもらったし…時間あるならお茶でも」
 宮田は、うっと言葉につまった。期待に潤む眼差しと物欲しげな顔つきを一歩が見せるので、ここですげなく断るのは気がひける。というよりも、鴨川の面子に見られればまた冷やかされるに決まっている。
「…オレ、バイトあるから」
「そう…」
 一歩が眉をさげて落胆した。宮田はため息をついて続けた。
「少しだけだからな」
 うなだれた一歩が、ぱっと顔をあげて嬉しそうに返事をかえした。こうしちゃいられない! とばかりにはりきってジムの中へと入っていく。
 一歩の背中についていく宮田は、コイツ犬みたいだなと思った。尾でも生えていたら千切れんばかりに揺れていそうだ。あながち間違いでもない想像に宮田は苦笑した。懐かれるのも慕われるのも悪い気はしないが、一歩の態度は少々オーバーすぎる。もうすこし普通にしてくれたらオレだって普通にしてやるのによ、と宮田は独り言ちた。




 座ってしまったら長引きそうだ。そう考えた宮田は、ジムの壁にもたれながら一歩と話をしていた。一歩は宮田の目の前で、手を組んだり指を動かしたりと忙しない。ときどきちらちらと宮田と目を合わせては照れたように俯いて、もじもじとしていた。顔をあげてはうつむいて、その繰り返しである。
 もう見ていて苛々する段階は通り越していた。

 お前のその態度何とかなんないのか、と宮田が口にしようとした時だった。
 宮田の正面で肩をすくめている一歩の後ろに、鷹村がそろりと近づいたのは。

「なーにやってんだあ? オメーら」
「わ、ちょ、鷹村さんッ!?」
「どーも。お久しぶりです」
 宮田の挨拶に「おう」とだけ返した鷹村は、一歩を抱きつぶすように背後からのしかかっていた。
 背中に感じる豊満なバストに、一歩の顔が一瞬でユデダコになる。うぶな反応が面白かったのか、鷹村は爆笑しながらぐいぐいと胸をおしつけた。一歩の首を左腕でがっちり締め上げ、あわてて離れようとする一歩を逃がすまいと右腕を腹にまわす。
「は、はなして、はなしてくださいよお」
 何ともなさけない声だった。見事なまでに隆起している上腕に押しつぶされた一歩は、もごもごとしか喋れないらしい。
「あアん? ちったあはっきりものを言いやがれ!」
 右手で一歩の髪をくしゃくしゃとかきまわした後、ついでとばかりに後頭部を小突いて一歩を解放してやった鷹村は、首からさげたタオルで自分の髪をおざなりに拭う。
 鷹村はめんどうがってシャワーを浴びても髪を拭かないので、着替えた上着も肩口のあたりが濡れることがしばしばだった。
 ようやく逃がしてもらえた一歩がぱっと後ろを振り返って鷹村に小言を言った。
「もー! また髪拭いてないんですか」
 風邪ひいちゃったら困るの鷹村さんでしょ、だの僕まで濡れちゃったじゃないですかだのとぼやきながら、一歩は自分のトレーナーをひっぱった。点々と水滴のあとが残っている。
「そのうち乾くだろーが」
「そういう問題じゃないんですっ」
 きゃんきゃんと騒ぐ一歩を、鷹村はろくに相手にしなかった。小指で耳掃除をしながらふうんと相槌をうっている。人を小馬鹿にしている態度は相変わらずだなと宮田は思った。
「だいたい、宮田くんが見てる前でひどいですよォ」
 泣きが入った一歩の訴えに、鷹村は新しいオモチャでも見つけたかのような視線を宮田に投げてきた。にやついた顔が妙に腹立たしい。
 鷹村は一歩の頭を撫でながら「そおかそおか」と一人納得している。宮田は嫌な予感がした。鷹村がほくそえんだ。
「まーた飽きもせずに宮田クン宮田クンかあ? あいっかわらず大ッ好きだよなあ一歩ォ!」
 やっぱお前ホモだろ! いっそ告っちまえばいいんじゃねえか、宮田も満更じゃねえぞ多分! と馬鹿でかい声で続けた。
 三人になるべく関わらないようにしていたジム生たちが堪えきれなくなったのか、あちこちで身体をまるめて笑いを押し殺しはじめた。噴出すような笑い声も一部から聞こえてくる。一歩は困ったような顔をして鷹村をとがめるだけだ。
 それぐらいでは鷹村はとまらない。宮田は、挑むように鷹村を睨みつけた。鷹村の双眸が好戦的に細められた。


「今のあんたらでも十分ホモくせーけどな」

 宮田の一言に、ジムの空気がピシリとかたまった。嘘のようにしいんと静まり返る。
 日本女子プロボクシング界が誇る最終兵器鷹村まもりにそんな口をきくのは自殺行為だった。言うが最後熊をも殴り殺す凶器がふるわれるのだから、たまったものではない。鴨川ジムに在籍している者は、そのあたりをよく知っている。女という性別は、彼女にたいしてはとりはらって考えなければならないものだ。
 鷹村の眉間に青筋がすうっと浮いた。宮田が東洋太平洋チャンプだと言っても、鷹村との階級差と実力差を考えればおのずと答えはでてくる。彼女お得意のプロレス技でなぶり殺しの刑だ。
 鷹村が悪魔のような顔で口を開く前に、ジム内に一歩の声が響いた。
「宮田くん! いくらなんでも今のは君が失礼だよ! 鷹村さん女の子なのになんてこと言うの!」
 普段から温厚でボクシングとは無縁そうな幕之内一歩の、立腹した声がジムを包む。鷹村さんに女の子って言いやがったよ! といつもなら笑い声が上がりそうなものだったが、まるで試合中のような気迫の一歩に全員押し黙ったままだった。
 宮田と一歩の激しい睨みあいが続く。先に視線をそらしたのは宮田の方だった。
「謝ってよ」
 一歩の語調はきつい。あんなに宮田くん宮田くんと言っていたというのに、今の一歩は宮田フリークぶりを微塵も感じさせなかった。
「…なんでオレが」
「いいから、謝って」
 そっぽを向いている宮田に、一歩が詰め寄った。真剣な眼差しからは怒りがありありとわかる。宮田は、どうしてオレが責められなきゃならないんだと思ったが、言葉にすることはできなかった。
 今反論しようものなら、火に油を注ぐようなものだ。一歩の予想外な一面に、宮田はどうすればいいのかわからなかった。多分一言謝ればまるくおさまるんだろうが、それでは宮田の腹の虫がおさまらない。
 膠着状態が続く。宮田はがらにもなく手に汗握った。


 なんともいいがたい雰囲気をぶち壊したのは、鷹村の下品な笑い声だった。
 鷹村は、宮田に対して強くでていた一歩をくるりと自分の方へむけてすばやく抱き寄せた。いきなり視界にうつるものがかわった一歩が驚いて声をあげるが、鷹村はその声ごと自分の胸に押し付ける。
 んーっ! というくぐもった悲鳴だけが聞こえてくる。宮田は呆気にとられて立ち尽くした。
「そーかそーか。一歩くんはそんッなにアタシが好きか! たく、めっちゃくちゃかわいいなあお前。チューしてやろーか、チュー!」
 若い女にセクハラをはたらくヒヒジジイのようだった。自分が若い女だろうに、鷹村は一切気にせず一歩を胸で溺れさせている。こいつめこいつめ、と可愛がる様子はどう見てもオスのライオンが我が子で遊んでいるようにしか見えなかった。
「や、やめてくださ…! たかむらさあんっ」
 まがりなりにも女性の身体なので、一歩は自力で引き剥がす事ができない。困りきった一歩は、行き場のない手を彷徨わせたりばたばたと動かしてみたり、ささいな抵抗しかできなかった。


「おう、宮田! 今日は一歩に免じて貴様の暴言も許してやろう。寛大なアタシに感謝しろ!」

 上機嫌な鷹村の言葉に、宮田は今後一切鴨川ジムには立ち寄らないことを決めた。


[ end ]



掲載日2010年12月06日