Non riesco a respirare bene. 後編
正直に言ってしまえば、鷹村には耳を疑う気持ちと共に下世話な興味もあった。
世界でも屈指のボクサーであるリカルド・マルチネスと二度も闘った男として有名な伊達は、家族思いの愛妻家としても同じぐらいに有名だ。
実際に個人的な交流のある鷹村は、その一端を目にしたことがある。
人好きのする性格の伊達は飲みに誘われることも多いが、誘うことも多い。なかでも好んで連れまわそうとするのはお気に入りの人間がほとんどだった。
とくに鷹村はボクサーとしての実力も、鷹村自身の性格も買われているのか、自然と一緒になってキャバクラやバーに繰り出すことが多かった。
ボクサーとしての彼らを知らなくとも、目をひく二人組みである。
黙って立っていれば鷹村も伊達もその筋の人間と勘違いされそうなものだが、互いの間でテンポよく会話が交わされているため、雰囲気はがらりと変わる。
外見から感じる危険な香りもちゃめっ気でごまかしてしまえば、ギャップとして魅力的にうつるのだろう。本人たちが意図しようとしまいと、異性の関心を得るには十分すぎるものだった。
そのため洒落た店では「男同士で飲むなんて野暮ったい」と相席を申し出る女性たちも多かったのだ。勿論無碍に断るような真似はしたことがないが、あからさまに性を匂わせる相手や、しなだれかかる女に対して、伊達は頑なだった。
やんわりと距離をとり、自分のペースに巻き込んでそういう雰囲気を流さないようにするか、もしくはストレートに断っていた。
女あしらいのうまい伊達は、いつもそうして拒否の姿勢を崩さなかった。
だからこそ伊達と一歩がそういう間柄にあるということを聞いて、鷹村はにわかには信じられなかったのだ。他の誰でもなくあの男が、自ら妻や息子を裏切るような真似はしないという確信めいたものがあったからだ。
しかし鷹村の目から見て、一歩が冗談を言っているようには見えなかった。彼のまなざしは如実に物語っていた。伊達が一歩に手を出したということが濃厚だと感じるには十分だった。どちらが悪いのかはわからなかったが、多分表現としてはこれであっているのだろう。
だからといって素直には受け止めにくいのも確かだった。
妻や家族のことを差し引いたとしても、伊達は鷹村と同じようにノーマルな男だったはずだ。根っからの異性愛者である彼が、どうして急に同性を相手にするようになったのか。
同情か、あるいは欲情からか。それともこれを、愛情とでも言うつもりなのか。
さすがに口にすることは憚られるため、鷹村は一歩に対してどんな言葉をかければ良いのかわからなかった。模索しても一向に見つからない。多弁な方である鷹村にとって、こういった状況におかれること自体がはじめてだった。
そらせない視線の先では、嗚咽なく泣いている一歩がいる。
不躾とも言えるほどまじまじと見やる鷹村に、一歩は「ごめんなさい、気持ち悪いですよね、すみません」と苦笑してみせた。それが健気にも儚げにも見えた。
隣で並んでサンドバッグを殴っていた後輩を、そんなふうに思ったのもこれがはじめてだった。
青白い顔の目元は赤い。ここへ来る前にも泣いていたのだろうかと、鷹村はぼんやりと考えた。
もう一度「ごめんなさい」と言って一歩が頭をさげる。それにはじかれるようにして、慌てて鷹村が否定する。
「…偏見とかよ、そういうので黙ってたわけじゃねーよ。なんつーか、な。思いもしなかったってのが一番か」
反応の鈍さで誤解を招いてしまったようだったが、何も嫌悪感を抱いているわけではなかったのだ。ただ突然のことで、少し驚いてしまっただけだった。しかしとってつけたような言葉ばかりが口をつくので、どうにもならない薄っぺらさが拭えなかった。
その場しのぎという言葉が鷹村の脳裏によぎる。
「ボクの方こそすみません、急にお部屋に押しかけて…嫌な話しばかり聞かせてしまって」
そんなことねえよ、とは鷹村は言えなかった。しかし沈黙も気まずいばかりで、ますます場の空気をおかしくさせる。そういう予感は外れた試しがなかった。
鷹村が目を閉じる。少しばかり苦悶にゆがんだ表情だ。
低い声がこぼれでた。
「なんで別れたんだよ、お前ら」
思いもしなかった質問に、一歩が「え?」と聞き返す。鷹村はそれに応えて、もう一度言ってやった。
「なんで別れたんだよ」
急に話題を変えるのも不自然すぎる。
鷹村が思いつくかぎりの会話のなかで一番無難なのは「別れた理由」だった。
付き合っているという段階ならそこにいたるまでの経緯を聞くのもいいだろうが、別れてからではわざわざ蒸し返すことになるうえに、余計なことを思い出す引鉄になりかねない。
だったら別れたという事実に直面させて、きっぱり終わったことを自覚させた方が後々引きずらなくてすむだろう。
器用でない鷹村のやさしさを感じ取ったのか、一歩は嫌な顔をせずに言葉を選びつつ回答した。
「伊達さんの誕生日がきっかけだったかもしれません」
誕生日? と鷹村がオウム返しすると、一歩は「はい」と頷いた。
「後ろめたさは、前々からあったんです。いけないことをしてるってことも、わかっていました。でもそれを真正面から受けとめたことってなかったんです」
ひとりでいるときに漠然と不安に思うことはあっても、伊達さんと一緒にいるときは、忘れてしまえるから。
わずかに顎をひいた一歩が、なにかに耐えるような仕草をした。きゅっと眉をよせて、下唇を噛む。
感情の嵐が過ぎ去るのを待って、一歩がゆっくりと話しを再開させる。
「はじめて付き合ったひとの誕生日だったので、いろいろ調べたりして、ボクなりに頑張ってみたんです。きっと当日はご家族で過ごされるだろうから、前日か、そのあたりで渡せればいいなって思ってました。でも、よかったら当日、家に来ないかって誘ってもらえて」
かすかに震える一歩の声が鷹村の胸を痛ませる。
「要するに愛人を本妻にお披露目ってことじゃねえか」
ついついこぼれた鷹村の本音に一歩が苦笑した。浮気や不倫をしている状態で非常識もなにもないのだが、言わずにはいられなかったのだ。
「あとから聞いたんですけど、あの、愛子さんがボクのこと、呼んだらっておっしゃったみたいで。それで、当日に会うことになったんです」
伊達の妻は、自分の夫が何を仕出かしているのかをそれとなく知っていたのかもしれない。そういう事もあり得るのだと一歩もうすうす感づいていたのか、そんなことを思っている鷹村からすうっと目をそらした。
「もう本当に、よくある話しって感じなんですけどね。伊達さんと、ご家族の方とすごして、ボク、何やってるんだろうって急に、」
一歩が声をつまらせる。とっさに一歩の左手首をつかまえた鷹村は、そのまま勢いにまかせてぐいっと自分の方へと抱き寄せた。
自分の行動に驚いて目を瞠る。しかしこれなら泣き顔を見なくてすむと、鷹村はわずかにほっとした。背を撫でてやると、一歩の背中がびくりとはねた。
「それで」
鷹村が、続きを催促した。
「そ、それで、怖くなってしまったんです。このままずるずる続けていけば、いずれ、気づかれてしまうだろうし、そうなったら、あんなに素敵な家族なのに、ボクがいるせいで壊してしまうって」
そう考えたらもう、一緒にいるのも怖くて、どうしようもなくて、それで。
「それで別れを切り出したって?」
鷹村の胸に顔をおしつけている一歩がこくんと一度頷いた。
必死になってせき止めてきた感情があふれ出してしまったのか、ちいさな嗚咽が断続的に聞こえる。
涙にうもれて聞き取りにくいが、一歩は懸命に話しを続けようとしていた。
まだ好きなんです。まだ好きで好きで好きで好きで、でもどうしようもないんです。
しゃくりあげながら、一歩は鷹村にしがみついた。それを引き剥がすでもなく、鷹村が一歩の頬へ左手をすべらせる。
ふくふくとしたまろい輪郭が子供のようだった。うさぎのように真っ赤な目がとけてしまいそうなほど涙をにじませている。先ほどまでの大人びた顔はどこにいったというのか、泣きじゃくる姿は年齢よりもずっと一歩を幼くみせていた。
他の男を思って泣く姿がなぜだか少し鷹村の神経を逆なでしていった。
鷹村にされるがままに身体を預けている一歩は、鷹村の左手を拒むでもなくそのまま頬をよせている。
しかし、しきりに呟いているのは行き場を失った伊達への恋慕だった。どうしよう、どうしよう、どうしよう、伊達さんが好き。伊達さんが好き。
まるで、壊れたラジオのように、それしか口にしない。その唇に、鷹村は噛み付いてやろうかと考えた。
同情か、あるいは欲情からか。それともこれを、愛情とでも言うつもりなのか。
蝉の声よりも扇風機の音よりも、なによりそれが鷹村を苛立たせた。