The king of king.
鷹村が現役を退いたのは二十九歳の誕生日を迎えてすぐだった。事故や故障で引退に追い込まれたのではなく、自らすすんでグローブを置いた。
夢の六階級制覇は、ベルトが三つのところでとまったままだ。もう数を増やすことはない。
当人である鷹村や、彼の背中を追っていた後輩たち、その誰よりもこの事実を重く受け止めたのは意外なことに雑誌の記者や大衆の方だった。
現役時代の鷹村は、いわゆるビッグマウスだ。
そう呼ばれる選手の大半は自分を鼓舞するために、もしくはショー的な意味合いを含めて大きな事を口にするものだが、鷹村のそれはまるきりの地だったためよく反感を買っていた。
なまじ実力があったから良かったものの、試合後に野次を飛ばされるということがしょっちゅうで、それがベルトを奪取した世界戦の後でも変わらないというのだから恐れ入る。
投げられた空き缶を蹴っ飛ばして「うるせー!」と吼える姿は、もはや恒例といってもよかった。
だからこそ、彼がリングの上でよくも悪くも注目され続けることが当たり前なのだと勘違いをしてしまったのだろうか。
特に会見も行わなかった鷹村の引退は、その事の重大さにかかわらず本当にあっさりとしたものだった。静かに、まるでそれがなんでもないことのように幕を下ろしたのだ。
あくまでも、それは当人の中でだけの話しだった訳だが。
鷹村のことを不世出の英雄とも、希代の風雲児とも書いて持ち上げた雑誌社は、鷹村の引退表明をうけてここぞとばかりに彼をこき下ろした。品位もなければ誠意もない、スポーツマンにあるまじき行為であるとまで辛辣をきわめた記事に対し、鷹村はおそろしいほどに無関心だった。およそ彼らしくないと言ってもいい。なにを書かれてもどこ吹く風で、まったく理由を語らない鷹村を、今度は多くの記者やスポーツ誌が支持し、類稀なる才能ゆえの孤独と題してもてはやした。
しかし彼は変わらず無言をつらぬいた。
ある人は鷹村を育てた恩師の病状が芳しくないことが原因とも、またある人は強すぎるがゆえに倦厭され、極端に試合が組まれなくなったことからしかたがないのではないかとも分析した。
結局そのどれもが憶測でしかなく、結果として鷹村守というボクサーが引退したという事実だけが残った。
がらがらと勢いよくジムの扉が開かれる。あちぃと言いながら足を踏み入れたのは鷹村だった。人より大きなてのひらをうちわ代わりに自分を扇いでいる姿は、現役時代となんら変わっていなかった。
先日入門したばかりの練習生にバンテージの巻き方を教えていた一歩が顔をあげて、小首を傾げた。それをいぶかしんだ鷹村がずんずんと一歩たちの方へ足を運んでいく。
二人に軽い会釈をして、おどおどとしながら新入りが席を立った。旧知の二人に遠慮してのことだった。一歩はそれに右手でこたえると、鷹村に向かって声をかけた。
外野の練習生は、息をひそめている。
「おつかれさまです。鷹村さん、安岡くんたちと一緒じゃなかったんですか」
鷹村が「はて?」という表情で一歩を見た。
一歩が「安岡くん」と呼んだのは、現在青木が面倒をみている選手の名前だった。階級はウェルターで、昨年の全日本新人王に輝いている。
勝手気ままな風来坊である鷹村は、鴨川ジムの専任トレーナーをしている訳ではない。顔を出すのも数ヶ月に一度、気まぐれを起こしてふらっと訪ねる日があるかどうかという頻度だった。誰にも何も言わずに立ち寄る程度なので、よっぽど機嫌が良いときでないかぎり、トレーニングに加わるようなこともない。
今日のように若手を引き連れてロードに出かける方が稀なのだ。
だからこそいちいち新人の顔と名前を覚えるということもなかった。鷹村が安岡という人物を知らなくとも仕方のないことなのである。
鷹村は首にひっかけたスポーツタオルで簡単に顔を拭うと、左手を腰にあてて何かを考えるようなポーズを見せた。わざとらしいそれに付き合って、一歩が「もー」と不平をこぼす真似をした。
「とりあえず戦績とかは知ってっけどよ、ちいせえ写真ぐらいしか見たことねーな」
指で写真の大きさを示しながら鷹村が笑った。配慮のかけらもない物言いに、一歩は安岡本人がいなくて良かったと胸をなでおろした。
「そんな言い方しないでくださいよ。うちの看板選手なんですから」
「知るかそんなもん」
フンとはなをならした鷹村は「オレ様ほどの大器ではあるまい」と断言した。
重量級の三階級制覇を成し遂げている男を基準にするのは、少しばかりスケールが大きすぎる。安岡も才能のある選手といえど荷が勝ちすぎるだろうに。
一歩は鷹村に聞こえないよう、ちいさく「負けず嫌いなんだから」と呟いた。
鷹村守、幕之内一歩、板垣学というタイトルホルダーが次々と引退した後、やはり鴨川ジムは勢いを失った。もともとこの三人の時代には青木や木村といった日本ランカーも抱えていたため、ジム自体が隆盛を誇っていたのだが、八木が懸念していたように、彼らが引退をむかえるとともに鴨川ジムの選手陣営は火が消えるように細々としたものとなった。
会長自身の年齢、経営の軌道、選手の質と人数。それこそ問題は山積みだ。闇雲にプロを抱えるわけにもいかず、結果として選んだ打開策は運営規模を小さくすることだった。
人を呼べるほどの選手がいなければ、仕方のないことだ。主力選手や腕の良いトレーナーを失って経営が傾き、やむを得ず廃業を選択するということはままあることである。
かつて宮田が所属していた川原ジムも持ちこたえられなかった。鴨川ジムとて、今後どうなるかわからない。
そういった状況下で入門してきたのが安岡という青年だったのだ。板垣が引退してからぱっとしなかった鴨川ジムの期待の星と言ってもいい選手である。
むしろ活躍から考えれば、今やジム内にとどまらずボクシング関係者の間でもかなり評価の高い大型新人と言えた。
安岡、安岡、安岡ねえと繰り返しつつもぴんときていない様子の鷹村に、見かねた一歩が口を開いた。
「鷹村さんが一緒にロードに行った子たちのなかに、ちょっとだけ宮田くんに似てる子いましたよね? あの子のことですよ」
一歩の言葉をうけてようやく合点がいったのか、鷹村は「あー。アイツか! ま、確かに似てるっちゃ似てっけどよ。宮田の方が愛想あるんじゃねーか?」といたずらっぽく笑ってみせた。目じりに細かなしわができる。年をとったせいか、鷹村の表情は二十台の頃よりもずっと柔和だった。
「それで、あの子たちはどうしたんですか」
一緒に戻ってきてないみたいですけど、と続けた一歩の頭に鷹村の右手がのびる。
「おー。あいつら現役のくせしてたるんでやがっからぶっチギって置いてきてやったのよ」
大口をあけて笑う鷹村に一歩が何か言いたそうに口を開きかける。それに気がついた鷹村がもう一度はなをならした。
「んなに心配しなくてもいーだろが。しばらくすりゃあ戻ってくンだろ」
当然のことのように言って、鷹村は一歩の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
一歩は釈然としないのか、不服そうな上目遣いをして「みんな鷹村さんと会うの楽しみにしてたのにあんまりですよ」とぶつくさ呟いた。
鷹村が引退してもう十数年も経つ。それでもいまだにボクサーとしての彼を知らない人間はいない。とくにボクシング関係者ならなおさらだ。尊敬と憧憬と畏怖とをこめて、彼の背中を追い続けている。
とくにかつて彼が在籍していた鴨川ジムにいたってはそうした傾向が顕著だ。そのあまりの盲目っぷりときたら、実物と想像とのギャップに衝撃を受けやしないかとかえって青木や一歩がひやひやするぐらいだった。
よからぬことを思いついたような鷹村が細めた両目をぎらつかせ、そのまま一歩の髪をぐしゃぐしゃとかきまわす。容赦のないスキンシップに一歩の首はがくがくと揺さぶられ、すわりが悪くなる。
好き放題された一歩が「もう、みんな見てるのに! ボクにだって立場ってものがあってですね」と文句をつけるものの、依然として鷹村はからかうのをやめない。
一歩としてはいつまでもかわらない鷹村とのこういった掛け合いもまんざらではない。時をさかのぼって、若い頃に戻ったかのような錯覚は、リングから降りた身にはまぶしくも感じられる。
しかし場所が場所だけに懐かしんでいる場合などではないのだ。
立場上、トレーナーとしての面子というものがある。
「いい加減にしてくださいよォ。困るんですってば! もう!」
照れ半分悔しさ半分の一歩に、鷹村は「ほお。いっぱしの口きくじゃねえか」とニタリと口角をひきつらせた。
鷹村の右手がぱっとはなれる。彼のてのひらが退いたあとには、毛先が四方八方にとびはねて、頑固な寝癖のようになった髪が残されていた。
雲の上のような先輩たちだ。偉大な元王者の和気藹々としたやりとりに、そこらで息をひそめて注目していた練習生がたまらず笑い声をもらす。
それに気づいた一歩がさっと顔を赤らめる。自然と鷹村をとがめるような口調になった。
「もう、本当にやめてくださいよお。恥ずかしいじゃないですか」
手櫛ですいてぱぱっと髪を整える一歩に向かって鷹村は豪快に笑ってみせた。ついでわざわざ腰をおって顔をよせ、一歩の顔をまじまじと見やる。
突然の鷹村の行動にぎょっとした一歩が目をみはると、鷹村はぷっと吹き出した。ついで「だーっはっはっは!」という大笑いがジムに響いた。
何がそんなに面白いのかわからない一歩はきょとんとした表情で鷹村を見つめるが、それがまたツボにはまるのか、鷹村はひーひー言いながら腹を抱え始めた。
「む、昔っから思ってたけどよ、ほんっっっとにテメーは老けねェなあ! 今でもギリギリでイケるんじゃねーか、コーコーセーとかよォ!」
そんなことないでしょう! という一歩の反論は外野の哄笑でかき消された。とぎれとぎれになった謝罪を述べつつ、何人かは立っていられないのかしゃがみこんで震えていた。
この人がくるといっつもこうなんだもん、もう嫌だ! と思いつつ、一歩が咳払いをする。仕切りなおしの意味をこめてのものだったが、あまり効果はないようだった。
数人は気持ちを切り替えて各々の練習に精を出しはじめたが、いかんせん周囲はまだ騒然としていた。
初心者コースを受け持っている一歩が、バンテージもグローブも、縄跳びさえもまだまださまになっていない練習生へ声をかける。はーい! というどことなく子供っぽさの抜けない返事をうけて、一歩が歩いていこうとすると鷹村の腕が一歩の首をひっかけた。
うえ、とちいさく声をもらす一歩の耳に鷹村が口を近づける。
囁く声はどこかやっぱりふざけていた。
「ま、そーいうとこもひっくるめて気に入ってンだけどよ」
一歩が首元まで真っ赤に染めて唇をわなわなとさせると、鷹村はもう一度笑いはじめた。「だからそういうこともしないでくださいよ!」という一歩の切実な叫びは言葉にはならなかった。