第一話
晩夏。セミの声も次第に薄れ始めたこの季節。しかしいまだ残暑も厳しく、うだるような暑さが続いていた。
都内某所にあるここ鴨川ボクシングジムも例外ではなく、昔ながらの根性論を展開する会長の下、クーラーなどといったしゃれたものとは無縁な練習生達は練習の汗とはまた違った苦しみに声なき悲鳴をあげていた。
さながら血の池の餓鬼のようなその光景を後目にいつものようにメニューをこなしていく幕之内一歩であったが、やはり連日の熱帯夜にやられたのか少々動きに精彩を欠いているように思われる。一際強くサンドバッグを叩いた後に荒く息を吐く一歩の背中に少し離れたところからこの場に似つかわしくない飄々とした声がかかった。
「おーい一歩、ちょっとちょっと。」
首にかかったタオルで額の汗を拭いつつ振り返った一歩の目に映ったのは何か包みのようなものを掲げてにやついている青木と木村の二人組みだった。
「なんですかそれ?次の対戦相手の試合のビデオですか?」
至極まっとうな一歩の問いに顔を見合わせた二人はますますその笑みを深くする。
そのまま木村は一歩の腕を取るとジムの隅まで引っ張っていき、訝しげな顔をする彼の耳元にすっと顔を寄せた。
「もっといいものだよ。い・い・も・の。」
離れ際にフッと耳朶に息を吹きかける。
「ぁあんっ」
妙な声を上げ崩れ落ちる一歩の上に屈みこみ、片目を眇めてみせる。
途端に小鼻を膨らませてもじもじしだす一歩。
「えっと、それなら帰りにでも声をかけてくださいよ。こんな場所だとみんなが見てるじゃないですか。」
「ぎゃはははやっぱ勘違いしてやがるぜこいつ。」
爆笑する青木をやれやれとばかりに見やり
「一歩、お前呪いのビデオって知ってるか?」
「失礼します。」
くるりと背中を向け歩み去ろうとする一歩。
「おい、待てよ」
「練習がありますから。」
心なしか強張った顔でシャドーに入ろうとする一歩を抱きつくようにして止め木村が言葉を続ける。
「落ち着けって、せっかくの夏なのにジムに篭って練習ばっかじゃくさっちまうだろ?」
「それはそうですけど、僕は怖いのは少し」
いやいやをするようにかぶりを振って木村の腕から逃れようとする一歩をなんとか押さえつけ
「なぁ一歩、吊り橋効果って知ってるか?」
と思わせぶりに尋ねる。
「?聞いた事はあるような…」
食いついてきた一歩にしめたとばかりに内心ほくそえみ、表面上は諭すように話しかける。
「簡単に言えばドキドキするような恐怖体験を共にした男女は距離がグーンと縮まるってヤツだ。映画とかでもなんだか知らないうちに主人公とヒロインがくっついてるときがあるだろ?」
青木もすかさず合いの手を入れる。
「そうよ、お前がコレを久美ちゃんと一緒に観たとしたら一気に仲が進展するんじゃないのかよ?そうでなくとも暗がりでお前にしがみつく、なんておいしい場面があるかもしれねぇじゃねえか。」
「しかしですね。」
なおも拒否する一歩。しかし言葉とは裏腹にその表情はだらしなく弛緩している。おそらく脳内ではそのシチュエーションがありありと想像できているのだろう。
目ざとくそれを見てとった木村は
「そうか…お前がそんなに嫌がるのなら後輩に無理強いはさせちゃいけねえな。」
「悪かったな一歩、この話しは忘れてくれや。」
あっさりと引き下がり青木もあとに続く。
「えっ、ちょっと、待ってくださいよ。」
焦る一歩に
「俺たちはただがんばっている後輩の生活に花を添えてやりたかっただけなのにな。」
「おぉ、そんなに嫌な思いをさせちまってたとはなぁ。はぁ…先輩として失格だぜ。」
どんよりとした背中が追撃をかける。
「わかりました、わかりましたから。お願いします、観させてください。」
必死で頭を下げる一歩の見えない位置で二人はさっと目配せする。
そしてさもしぶしぶといった具合に、
「んーそこまで頼まれちゃあなぁ。」
「しかたねぇよなあ。」
途端に困りきった顔の一歩が満面の笑顔を浮かべる。
その様子になぜかどぎまぎしながら木村は親指を立ててジムの奥を指差す。
「よっし、じゃあこれから三人で鑑賞会といこうぜ。」
「これからですか?」
怪訝な表情をする一歩。くるくると変わる後輩の表情に苦笑しつつ
「本番でビデオを観て久美ちゃんと一緒に悲鳴あげてたんじゃカッコつかないぜぇ?」
と青木がチャチャを入れる。
「トォミ子に聞いたんだけどよぉお?前に遊園地に行ったときにオバケ屋敷で久美ちゃん置き去りにして逃げたらしいじゃねえか。」
「いやっ、それはですね、間柴さんが」
からむ青木に慌てる一歩。そこにずいっと身体を割り込ませ
「見苦しいぞ一歩。」
一喝する木村。
「だいたい練習でできねぇことを本番でできるわけないだろうが。お前はここで何を学んできたんだ。」
青木と木村はしゅんとうつむく一歩の反応に満足しつつボクシングの練習に決まってるじゃないですかと呟く彼の背をグイグイと会長室に押し込んだ。
「さーて、会長も八木ちゃんも出かけているうちに…っと。」
いそいそとデッキにビデオをセットする青木。木村はその様子を眺めつつ
「噂じゃあものすごく怖いらしいぜ。」
チラリと一歩を見やる。試合の直前もかくやとばかりに緊張している様がありありと見てとれる。
そこで木村はさりげなくソファーに縮こまる一歩の肩を抱き
「なんだよビビッてんのか?いつでもおれに抱きついてもいいんだぜチャンピオン。」
とおどけた口調で一歩をからかう。
その手をやめてくださいと振り払いながらもやはり怖いのか木村からあまり離れていないところにちょこんと座りなおす。青木も彼の頭をわしわしと乱暴に撫でながら
「せっかく雰囲気を出すために部屋を暗くしたんだから遠慮なくビビってくれよ。」
と一歩のすぐ横のソファーの背にもたれるように身を乗り出した。
オープニングも何もない砂嵐ばかりの画面からの光だけが三人の顔をぼぉっと照らしている。
「そういえばどんな内容なんですか?」
ふと一歩は疑問を口にするが
「「知らねぇ。」」
と口をそろえて言われ『そうだこういうヒトたちだった』と頭を抱えた。
「だってなぁ、こーゆーのはみんなで観たほうがなにかとよ」
「おぉ、ぶっちゃけ怖ぇえしな」
すかさず一歩が反論をしようとすると
「しっ始まるぞ。」
「子供じゃねえんだから少しはおとなしく観てろよ。」
これである。憮然とした表情のまま一歩の眼は画面に吸い寄せられた。
その映像は実に不可思議だった。突然映し出される円形の風景、次に髪を梳かす女性。
女性が何事か振り返る。と、画面いっぱいに蠢く何やら不吉な新聞記事、『ヒト』のようなもの。
まばたきを繰り返す眼球、その中には『貞』の文字。最後に、『井戸』。
そしてビデオは始まりと同じく唐突に終了した。
「…これで終わりですか?」
最初に口を開いたのは一歩だった。
「みたい…だな。」
それに答え大きく息をついた木村に
「なんだよ、全然たいした事ねーじゃねーか。」
期待していたような恐怖映像はまったく無く、不完全燃焼気味の青木。
それをフォローするかのようになんだか不思議なビデオでしたねーなどと一歩が和ませようとするが室内にはどこかしらけたような空気が流れた。
「まぁ、とにかく先に観てよかったじゃねーか。このビデオじゃ久美ちゃんもさすがにお前に抱きつけないって。」
部屋の明かりを点け、テレビとデッキの電源を落としながら青木が言う。
「悪かったな一歩、今度はもっとちゃんとしたヤツを用意するからよ。」
いえ、だから僕もホラー物は苦手―――と一歩が言いかけたそのとき
「なにやっとるかキサマらっ!!」
いきなりドアが壊れるかという勢いで開き、足音も荒く入ってきた鴨川会長の怒号が空気を震わせた。飛び上がる一歩等をよそに会長はつかつかとテレビに歩み寄ると
「ふんっ、なんじゃこれは気味が悪い。メニューもこなさんとキサマらは…。」
と画面いっぱいに広がる眼球にひとしきり気を上げたあとコレは没収するとビデオを片手に部屋を出て行ってしまった。
「あーあ、会長を怒らせちまったな。」
嘆息しながら木村は頭をぽりぽりと掻く。青木は首をかしげながら
「でもよぉ、なんで会長はこんな早くここにきたんだ?外回りから帰ってきたにしろ練習生達にあれこれ指導してから奥にくるだろ。普段はよ?」
まさかこれがビデオの呪いか?と盛り上がる二人に
「あのー、僕少し気になったことがあるんですけど」
控えめに一歩が声をかける。なんだよ一歩と言いかける木村をしっと制し青木はじろりと閉まったドアへと目をやった。かすかにドアの向こうからはくくくくと忍び笑いがもれている。
足音を立てないようにして近づいた青木は一気にドアを開く。
「やっぱりてめぇか!!」
一歩と木村が青木の肩越しに覗き込むと床に突っ伏した鷹村が腹を押さえている。
笑いすぎてこぼれた涙を拭いながら
「あーすまんすまん、いい年した男三人が幽霊だの呪いだのやってんのがほほえましくてな。」
そう言うと自身の発言がツボにはまったのか今度は堂々と爆笑しはじめる。
てめぇ告げ口しやがってと鷹村に飛び掛ろうとする青木を押さえながら木村は小声で
「あぁ言っちゃいるけどよ、鷹村さんは自分だけ仲間はずれになったこと逆恨みしてやがるんだよ。」
と一歩にささやく。合点のいった一歩は若干の非難をこめた目で鷹村をみつめる。
途端に落ち着かない仕草で頭をかき始める鷹村。宙に彷徨わせた視線が自分の事をニヤついた目で笑う青木をとらえ、体のいいフラストレーションの吐け口としていつもの如く理不尽大王が炸裂した。
はじかれるように木村の腕から奪い取られ羽交い絞めにされる青木。鷹村の豪腕に股間を握りつぶされ車に轢かれたカエルのような悲鳴を上げる。そのままマウントポジションをとられてなすがままに次々にプロレス技をかけられ次第に無惨な状態になっていく青木を見かね、木村と一歩が鷹村の両腕にしがみついていると階段を上がってきた会長にじろりと睨まれる。
「…いい気なものじゃな小僧共。」
「あの…これはですね…その、訳がありまして」
一歩の言い訳に耳を貸さず会長はひとつため息をついた。
「何を…しておるんじゃな?」
静かな口調ではあるが頬がひくついている。目元も赤く紅潮し今にも怒りが決壊しそうなことがはっきりとみてとれる。
その迫力に思わずつかんでいた手を離し、一歩二歩と後退る木村と一歩。
会長をよく知るものならこれ以上の刺激は得策ではないとわかっている。事実木村、一歩、組み敷かれている青木までもが、顔を青くし怒れる会長を宥める言葉を探していたがこの男を止められるものはこの場に存在しなかった。
「なんだよジジイ、もう俺様は用はねぇんだからあっちにいってろよ。」
青木にアナコンダバイスをかけつつぞんざいに顎で階段を示す鷹村。その言葉を聞き会長のこめかみに血管が一気に浮かび上がる。大きく息を吸い込んだ数秒後を予測し、素早く両耳を押さえる木村と一歩だがぎっちりと両腕を固められた青木は身動きがとれずじたばたするだけである。
一瞬の後、先を超えた怒声がジム内に響き渡る。
「こぉの馬鹿者共がぁ!!」
間近で直撃を食らった青木が白目を剥くが鷹村はどこ吹く風で
「おぉ怖ぇ怖ぇ」
ひょいっと青木を放すとロードワークに行ってくらぁとジムを飛び出していった。
残された一歩たちは怒髪天を衝いているこの状況をなんとかしようとするが、今の会長を宥めることはリカルド・マルチネスからカウンターを取ることより困難そうだ。
「あの、会長?」
「あぁ?なんじゃ!!」
間髪入れず怒鳴り返す会長の剣幕に思わず後ずさる一歩。おどおどと木村の後ろに隠れようとするが木村も行かせまいと身体で阻む。その様子を見て会長はますます怒りをつのらせる。
その空気を破ったのは意識を取り戻した青木だった。
「会長!そのビデオっ!!」
鷹村の乱入で一同すっかり失念していたが一歩たちが今日この場に集まった原因であるビデオはいまだ会長の手の中にあった。
「すんません会長、それ、返しに来てくれたんすか?」
やっときっかけをつかめた木村が前に出て右手を出す。
じろりと会長は木村を睨んだ後、おぉこれか?とビデオを差し出した。
そしてそのまま真っ二つに叩き割った。
「「「あーーーーーっ!!!」」」
こんなものこんなものと床に叩きつけなおも踏みつける会長を押しのけるようにしてビデオの残骸を回収するとどうですか?と木村に目で問いかける一歩。無言で首を振る木村。
会長は行きがけの駄賃とばかりに青木の頭を拳で一撃した後、足音も荒く階段を下りていった。
「………。」
再び場を沈黙が支配する。
「おっ、そういえば一歩、さっき何か言いかけなかったか?」
重い空気に耐えられなくなった木村が一歩に尋ねるが、一歩はちらりとこちらを向いた後
「…もういいです。」
と暗い顔をしながらとぼとぼと去っていった。
青木と木村の二人もなんだかしらけちまったなぁ、女の子にでも電話するかぁなどと言いながらその場を後にする。
喧騒が遠ざかり、カーテンも閉められ照明も消えた会長室、テレビの画面がぼぉっと光るのみ。
映し出されるのはどこかの深い森、画面はその中を進んでいく。
ふと開けた場所に出る。その中心には古ぼけた井戸。その縁に内側から白い手がかかる。
ぎこちない動きでぐぐぅーっと身体を持ち上げたざんばら髪の女、その顔は…
残り6日。