01:頭の頂点にそっと
ぴょこぴょことはねている寝癖から、どうにも目がそらせない。鷹村は引き寄せられるように一歩の後ろ姿を目で追った。腕を伸ばせばくしゃくしゃと撫ぜてやれるような距離にいる。しかし抱き寄せて可愛がるにはほど遠い。
ひゅんひゅんと風をきる縄跳びの音をBGMに鷹村は伸縮タイプのバンテージを親指でひっかけた。一歩のリズムは青木ほど重くなく、木村ほど精密ではない。ときどき音を外すような、非常に不器用そうなものだ。鷹村はたたんたたたんという着地音を口ずさむ。
慣れ親しんだ感触に口笛を吹いて、両手の手首やこぶしわまりの具合を確かめた。
鷹村は目に見えて上機嫌である。理不尽男のおそろしいほどの穏やかぶりに、逆に緊張の糸が張り詰めそうだと木村と青木は互いに目をあわせて頷く。そろりと、だが確実に鼻歌交じりの鷹村から距離をとっていく。天性の野性に感づかれないように練習に身を入れつつ逃げをうつのは至難の業だ。しかし二人とも悲しいかなそんなことには慣れていた。
縄跳びを終えて、一歩がタオルを手に一息つく。したたる汗をタオルでぬぐって、わずかに与えられる休憩は、体力を回復するために専念する。かるく屈伸を繰り返していると、急に何か大柄なものにのしかかられた。ぐっと踏ん張って重みに耐える。自分の肩にだらりとのせられている太い腕の持ち主は一人しかいない。
背中に感じる肉厚な体躯に、一歩はふりかえらずに話しかけた。
「鷹村さん、どうしたんですか」
「どうもこうもねえーよ。お前のトンチンカンな縄跳び見てたら気ィ抜けちまったんだよ」
ったくどんくせー奴だなっ! と笑われて、一歩は頬をふくらませた。リズム感が欠如していることは本人が一番わかっている。宮田のようなアウトボクサーの領域までとは言わないが、もう少しまともにならないかと気にしているというのに、鷹村はわかっていてこうしてからかってくるのだ。
反論したらまた何か言われる、我慢しとこうと一歩はちいさな苛立ちに言い聞かせた。
「お、重いですよ、鷹村さん」
試合をひかえていない鷹村の体重は大台にはのらないまでも九十をゆうにこえている。かたや一歩は五十六sそこそこだ。いかに耐久性に優れたタイプといえど自分より三十kgも重い相手にのしかかられるのは正直こたえる。
「オレ様をデブだとでも言いてぇのかこの野郎」
「わ、違いますって! そういうんじゃなくって」
「問答無用!」
うりゃっという掛け声とともに首に腕をひっかけられて身動きを封じられる。じたばたと暴れる一歩をもみくちゃにしながら鷹村は大口をあけて面白がっていた。鍛え上げられた上腕に押しつぶされくぐもった悲鳴がもれている。はっきりした言葉にならないのは、鷹村がわざと一歩の顔で遊んでいるからだ。うーっといううめき声が鷹村のテンションをあげる。
あんなにいじめっ子の本能を刺激するいじめられっ子はそうそういまい。木村は心の中で薄情な応援だけしていた。オレに火の粉がこないように頑張ってくれよ! という激励は、一歩からしてみれば迷惑な話だが、鴨川ジムの面々は皆そう思っている。願わくば悪魔のような男が自分を標的にしませんように、と。
しかしやりすぎて、もといあまりに構われすぎて一歩が拗ねても大変だ。案外と尾を引く性格を考えるに、線引きが大切である。その重要な役割は、いつも木村がまかされていた。というよりも、鴨川は別格としても、プロ・練習生問わずならば木村以外で鷹村をうまくいなす人間がなかなかいないのだ。青木がいくらつっかかっていったところで結果は火を見るよりも明らかである。
木村が見かねて、ここいらで助け舟を出さないと、と振り向いた瞬間。ほんの一瞬とらえてしまった光景に、木村は自分もたいがい貧乏くじをひいてばかりだと嘆いた。
鷹村が、一歩の頭頂部にかすかに触れるだけの唇をおとしたのだ。
一歩に頬同士が接触するほどのスキンシップをはかる鷹村だ。偶然かもしれない。しかし木村の両眼は鷹村のいつくしむような瞳を見た。鷹村は、マジかもしれない。木村は数度ぱくぱくと金魚のように口を開閉した。ついで目だけでジム内を見やる。各々が、練習に精を出している。
誰も木村のように動揺などしていなかった。心臓がばくばくとせわしない。にがにがしい表情を浮かべたまま木村は項垂れた。
「何突っ立ってンだよ木村ァ」
気落ちしたように見える木村の肩を軽く小突いて青木が声をかけた。いいな、お前は能天気そうで、と木村は思うものの、とりあえず確認のために青木に聞いてみることにする。
青木が見てなかったらきっと目の錯覚だ。そう思い込む事にしよう。審判を青木に委ねて、木村は意を決した。
ただならぬ雰囲気に青木も顔つきがシリアスになっていく。
「なあ、さっきの見たか」
「…な、何をだよ」
「鷹村さんだよ、鷹村さん。ほらまだ一歩で遊んでるけど」
あごで示して見せると、青木は気のない返事をかえした。鷹村さんも懲りねーなぁと半ばあきれて笑っている。懲りない、とはどういうことだろうか。いぶかしげな木村に、青木は首を左右にふって周囲を見渡した後、木村の耳元に唇をよせて、自分の口元をかくすように手で覆った。
「だって鷹村さん、一歩のこと好きだろ?」
「…は……!?」
思わず大声を出しそうになって木村は口を噤んだ。あまりにも衝撃的なことをすんなり、今日の夕飯は餃子にするわ、というようなテンションで言われても困る。
不穏な目つきで続きを催促する木村に、青木は逆に驚いた。察しのいい木村のことだ。自分よりも先に感づいているだろうと思っていたからだ。
「本人は気づいてねえだろうけどよォ。多分マジなんじゃねえの?」
「…ほんとかよ。うわあ…じゃあさっきの見間違えじゃねーんだな」
木村は先ほどうっかり目撃してしまった事を話す。青木は遠い目をした。すうっとそらされた視線が物語る真実に、青木と木村は互いに重い息を吐く。
鷹村という拘束からようやく脱出した一歩は、今度は鷹村に小突かれていた。過剰なまでのスキンシップに、少しばかり迷惑そうにしている一歩は事実を知らない。現在問題視されている鷹村の方は時間の問題だろう。
あきらめるという辞書を生まれつき持ち合わせていない鷹村のことだ。居直り強盗よろしく一歩を自分のものにするに違いない。
気苦労の耐えない先輩達は、この世で一番敵にしてはいけない男に寵愛された後輩の前途を思ってひっそりと涙した。