02:普段は前髪に隠されたそこに
鷹村守は二人いる。玄関を出て後輩の前に立つ粗暴な男と、自室でくつろぎながら一歩と一緒にいる男とは、とてもじゃないが同一人物には見えない。よく似た別人のように、恋人としての鷹村が外とは違いすぎて一歩は内心焦ってばかりだった。
公私混同しそうに見えて、その実はっきりと区別をつける男なのだと知ったのは、お付き合いとやらをはじめてからすぐだった。
鷹村はジムでは自分達の関係をおくびにも出さない。相変わらず青木や木村とバカをやっては一歩をからかって好き勝手に過ごしている。宮田とのことも今までのようにネタにされたりするので、ひょっとしてこの間の言葉は嘘だったのかなあと一歩は心配になったりもした。鷹村の口から好きだと告げられた事はもしかしたら夢の中の出来事なのかも、と思う。
一歩としては鷹村に熱烈なアプローチをされ、それを受け入れた時点で世界がかわったような気がしていたのだ。顔を見ただけで足元がふわふわした感覚に陥って気恥ずかしかったし、何度も鷹村の真剣な眼差しを思い出しては顔を赤くする日々に自分じゃないみたいだと思っていた。
鷹村は、それほど嬉しくないのだろうか。まったくかわらない鷹村を見ていると胸の奥がじりじりと焦がされる。どうすればいいのか何をしたらいいのか。まるきりの手探り状態に、一歩は不安でたまらなかった。
しかし傍から見ていてもわかるようなコンディション・ブルーっぷりはすぐに解消されることとなる。
このままお付き合いしててもいいんだろうかと疑問に思っていた一歩が、付き合ってからはじめて鷹村の部屋に招かれた日だ。
その日の鷹村はやはりいつもどおりジムでも一歩を後輩としてしか扱わなかったが、普段と違うのは太田荘によっていけと誘われた事だった。といっても付き合う前から頻繁に訪れているため、やっぱり前とかわらない状況に一歩の方は正直困っていた。自分だけ浮き足立っていて恥ずかしい。それにどんな顔をして話せばいいのか一歩は知らない。経験値のなさが肩身を狭くする。
お邪魔します、と礼儀正しく入ってきた一歩に鷹村はそこにでも座ってろといって立ち上がる。ぼさっとしていた一歩は言われるがままに腰をおろそうとして、違和感に気がついた。部屋が綺麗だった。失礼な言い方かもしれないが、毎回毎回通されるたびにうんざりするほど掃除がされてない部屋が、見違えたようにこざっぱりとしている。お姉さんでも遊びにきたのかな、と一歩は思ったが、彼女が片付けたにしては気配りが足りないような気がした。大雑把なりに整頓されているといった週刊誌を、京香だったら紐でしばっておくだろう。
なんだか落ち着かない気持ちをなんとか心におしとどめて正座する。座った位置はやや隅の方だった。
背後と左側には部屋壁があるので、そわそわと落ち着きのない自分を宥めるには最適だった。一歩は自宅にいる際に気分が落ち着かないときはいつも部屋の端で大人しく体育座りをしていたので、かえって真ん中に居座るよりも安心できるのだ。
台所から戻ってきた鷹村はコップを二つ持っている。なみなみと注がれたお茶を危なげなく運んでくる姿にバランスの良さが垣間見れる。普段は落ち着きのない言動ばかりで損をしているが、鷹村は本来姿勢も良いし足も長い。ぼうっと見上げていた一歩ははっとして中腰になる。
「す、すみません鷹村さんっ」
気がきかなくって、と眉を八の字に申し訳なさそうな顔をする一歩に鷹村は苦笑した。
「お前なあ、ここはオレ様ン家なんだから気にすんなよ」
「でも…」
「いいから黙って飲んどけ」
鼻先にぐいと突き出されたお茶を受け取ってお礼を言うと、鷹村は物静かに一歩の隣に腰をおろした。拳ひとつ分ほどしかない二人の距離に一歩は息をのんだ。
近すぎる! という一歩の心中の叫びが聞こえたのか、鷹村は横目でちらりと一歩の様子を伺った。びくりと大げさに肩をふるわせた一歩は、さながらしかられた仔犬のように身をちいさくしている。鷹村は大きく息をはいた。
「あのよォ、そー緊張されっとオレ様にまで赤面症がうつるだろうが」
別にとって喰いやしねえよと付け加えた鷹村の声は、聞いた事がないような穏やかさだった。
耳朶にのばされた指先は、リングで男を沈める猛々しさを一切持っていない。あまりにも自然な仕草で一歩の頬や髪に触れる鷹村が自分の知らない人間のようだった。こんなにも落ち着いて話す人だったのかと、なかば感心してしまったのだ。
目を潤ませて緊張している一歩の頬は林檎のように赤く火照っていたが、鷹村も照れているのか、わずかばかりではあるものの、彼の頬も薄く染まっている。鷹村さんでも赤面したりするんだなあと一歩は思った。
「だいったいなんでこんな隅っこに座ってんだ? どうどうとしてりゃあいいのによ」
「だっ、だってですね…鷹村さんがお部屋に呼んでくれたから緊張しちゃって…」
「もう何度もきてんだろ?」
ん? と聞き返す鷹村は目を細めて一歩を見つめている。やわらかい表情で話す鷹村は、ほどあいを知っている大人の男だった。今までにうけたことのない印象を一歩は受け取る。
「でも、はじめてです、よ」
ちいさくか細い声は、それでもふたりきりの部屋では十分に鷹村に聞こえるものだった。俯き気味の一歩に、鷹村は手を伸ばす。さきほどよりは大分肩の力も抜けてきた一歩の額にかかる前髪を後ろに撫で付けるようにすくいあげて、あらわになった額にそっと唇をおとす。
慣れてくれねえとオレもお前も困んだろ、という鷹村のぼやきにはあまい響きが含まれていた。
一歩はちょっと前までの自分達を思い出してちいさく笑みを零した。鷹村という男が自分の隣にいることがあたりまえになった今は昔とは違い、一歩の方にもある程度の余裕が生まれている。当時を思うと何をするにもびくついていたばかりで勿体無いことをした、と感じるぐらいには一歩の恋愛に対する経験値もあがったのだ。
自分のことに精一杯だった当初では気づかなかった事がたくさんある。例えば前もって一歩を部屋にあげる時には鷹村の部屋が片付いていることや、改めてもてなさなければならないような来訪者がいない鷹村の住まいにお茶請けが用意されていること。それから、膝枕をねだったり髪を撫でられながら仮眠をとる事が好きだとか。ときどき甘えさせろと言って抱きしめてくる事なんかは、定番だったりする。
意外にも鷹村は誠実で、一歩と付き合ってからは風俗通いをやめたことや、嫉妬はするけれど追求はできないタイプだとか、口に出して謝ったりはしないけれど冷蔵庫にプリンだとかを大量に買い込んで無言で出されたり。
ふてくされた鷹村には言葉よりも態度で示した方がいい事を、あの頃はどうしてだかわからなくていっぱい悩んで泣き疲れて寝てしまう事もしょっちゅうだっただけに、一歩はほんの少しくやしかったりもした。
自分の頭上で一歩が笑っているのを見て、鷹村は表情をやわらげた。何考えてやがるという口調は非難めいているが、一歩をうつす両眼は相変わらず落ち着いている。猫のようにきゅっと細められたそれはいたずらっぽい鷹村の癖だった。
知っているのはおそらく、一歩だけだ。
「何でもないですよ」
「んなわけねーだろ。ニヤニヤしやがって」
一歩の膝に頭をあずけている鷹村は、そのままの姿勢で両腕を一歩の首へまわした。胸元からぐっと引き寄せられて前屈みの体制になった一歩は、建て前の抗議として「もうっ、いきなりはやめてくださいよ」と声をあげた。
あなたのことですよと素直にこたえて「知ってる」と言われるのはわかりきっていたので、一歩は笑って誤魔化すことにした。
鷹村の「どうせオレ様のことだろ」といった自信に満ちた顔よりも、ほんの少し心配そうで、しかしそれをあえて見せないようにする鷹村の顔が一番好きだということだけは、秘密である。