06:揶揄う指先
冗談だとばかりに思っていた。酔った勢いでの、彼流のジョークなのだと。
一歩は自分をいいように組み敷いて、散々な目にあわせた後輩をぼんやりと見た。ぺしゃんこにつぶれた布団の上で、鷹村はいびきまでかいて熟睡していた。身体を重ねた相手に対して、配慮というものがまるでない。
そういえば入門当初から先輩を先輩とも思っていない態度だったと一歩は思い出した。頼りなげな一歩が後輩達になめられるのは正直今にはじまったことではないので仕方がないが、一歩のすぐ下の後輩である青木や木村をあごでつかいはじめた際には「ああやっぱり生まれ持ったものが違うんだなあ」と感心すらさせられた。
実際、鷹村は稀有な存在だった。ボクシングをはじめる前から、彼にはベルトが約束されていたようなものだ。体格、闘争本能、身体能力。そのどれをとってもまばゆいばかりに輝いている。
前評判どおりに鷹村が全日本新人王をとった時だった。「明日の晩飯は青木ンとこのラーメンだな! おごれよ!」と笑うついでに、事も無げに「世界チャンピオンになったらよお、オレと付き合ってくれるか」と言うので、一歩がついつい「なれるならね」とこたえてしまったのは。
あの時は酔っていた。一歩自身も危なげなくタイトルの防衛を成功させ、有望な後輩があとに続こうとしている。活気付いていく鴨川ジムのメンバーで遊ぶのが楽しくて、つい飲みすぎてしまったのだ。
「まさか、覚えていたなんて思わなかったよ。鷹村くん」
鷹村が蹴飛ばしたかけ布団と毛布をひっぱって、一歩は鷹村の身体をすっぽりとつつみこんでやった。
07:求愛行動
らしくねえよなあと鷹村は思った。
胡坐をくんだ鷹村の右足をまくらにして、一歩は気持ち良さそうに寝ている。鷹村はぐっすり寝ているらしい一歩の頭をゆっくりと撫でた。
一歩の髪は見た目に反して猫の毛のような感触で、鷹村はそれを気に入っている。
部屋は静かだった。先ほどまではテレビをつけていたのだが、一歩をおこしてしまうのではないかと思い、もう消してしまっている。らしくねえ、というのはこの一連の行動である。
オンナがいたときは、デートやらイベントやらが鬱陶しくて仕方がなかったのだ。一回寝たぐらいで彼女ヅラをされるのも正直うんざりする。腕枕をせがまれたりピロートークを求められるのも気分が悪かった。だから鷹村は素人の女よりもお水やお風呂のお姉ちゃんの方が好きだった。ビジネスライクでわずらわしさのない彼女たちとは、好きなときに会って好きなときにセックスができるので非常に楽なのだ。
それがこれである。なにくれと世話をやいてやっては機嫌をうかがって、いつも一歩のことを考えている。便利な女を全部切ったのもはじめてだった。
一歩に泣かれるとどうしていいのかわからなかったので、とりあえず伊達にわざわざ頭まで下げて普通のお付き合いとやらを教えてもらった。そう考えるとオレ様もなかなか努力家だな、と鷹村は思った。ついでに、まったくこれがあの鷹村守様の成れの果てかよ、情けねえと顔をゆがませる。
「らしくねえよな、マジで。ったくこいつのどこがいいんだか」
まあそんなのも嫌いじゃねえんだけどよ。
寝ている一歩に呟いて、鷹村はひかえめな笑い声をあげた。
08:狂おしい熱
「ちっと腹へってんだわ。少しでいいからよ、喰わせてくれねえか?」
石畳の街路を買ったばかりの本を抱えて歩いていた一歩は、突然かけられた声に驚いて後ろを振り返った。
点滅を繰り返している街灯に照らし出されて、ずいぶんと体躯のいい男が立っている。人気のない通路で自分に話しかけてくるあたり、大学での知り合いか何かかとも考えたが、生憎と男の顔には見覚えがなかった。
精悍な顔立ちはしているが、どこか不気味な男だった。ぷつぷつと鳥肌がたつ。
「えっと、残りものしかないんですけど…」
見ず知らずの他人相手に口にする言葉ではなかった。一歩は自分の言葉に驚愕して、目を見開いた。男はにいっと唇の両端をひきあげた。ちらりとのぞく犬歯に、一歩の全身の産毛が逆立った。妙な感覚に心臓が騒ぎ出す。
「喰えればなんでもいいぜ。…おまえン家よってっていいか?」
「あ、はい。あの、狭いですけどそれでも良ければ」
頭では危険なことだとわかっているというのに、一歩の意思に反して口はぺらぺらと余計なことばかりを喋りはじめる。男の紅い目から、目がそらせなかった。
「ンじゃあ、立ってんのも何だしよ。早速案内してもらおうか」
(吸血鬼は家人に招かれないとけっして入ってこれないと言っていたのは、いったい誰だったろう)
09:健気な誘惑
めずらしく積極的な一歩に、鷹村は「どーしたよ一歩ォ。ずいぶんとまあ、らしくねえなァ」と感想をこぼした。いつもよりも好色な顔つきで、鷹村は乾いた唇をかるく舐める。
はあーっと深く息を吐いた一歩の唇がふるえた。だって、という弱弱しい声が鷹村の気分を良くさせる。
「だって、あ、ンっん、んぁッ! た、かむら…さ」
「言えよ。はやく言わねえとよ、タイミング逃がしちまうだろ」
鷹村が下からぐっと腰をつきだしてやると、一歩が悲鳴交じりに声をあげた。心なしか喘ぎ声が大きい。こりゃあ確実に隣に聞こえてンだろうなと鷹村は思ったが、その気になっている一歩を前に我慢すんのももったいねえかと考えた。
普段は自身の腕に噛み付くか、あるいは衣服かシーツを口にくわえてやりすごすばかりの一歩が鷹村の上にまたがっている。自分からセックスに誘うような性格でもないというのに、今日はなぜだか率先して鷹村のモノに舌まで這わせていた。やらせたことはあったが、自主的に奉仕されたことは一度もなかったので内心嬉しかった。
一歩の豹変ぶりに、今までブレーキをかけていた鷹村が煽られる。
「ほら、はやくしろって。オレ様が待ってやってンだからよ」
一歩の腰をつかんで鷹村が双眸を細めた。淫らなアングルがたまらない。焼ききれそうな理性を手繰り寄せて、一歩に一息つかせる。
ぜいっと喉を鳴らして、荒い呼吸のまま一歩が口をひらいた。
「だ、って、きょ…で一年、だか、らァ」
10:恋は闇
あんま傍によるなよ。オレ様の手が触れちまうだろーが。なるべくオレから離れとけよ、取り返しがつかなくなる前に。おまえのためにわざわざ我慢してやってんだぜ。ンなにぼさっとされてっと困ンだよ。いいからはやくくっついちまえって言ってんだろ。おまえのためにも、オレのためにも、その方がいいんだよ。
「だあああ! テメーはいつまでうじうじしてんだよ! ありゃあどう見たっておまえに気があるじゃねえか! だいたいなあ、久美ちゃんだっていつまでも待っててくれると思うなよ。はやいとこモノにしねえと愛想つかされるぜ」
「で、でもですね。だって、その。お、お兄さんが許してくれないといいますか」
「あ? おまえ兄貴と付き合うわけじゃねえだろーが」
「そ、そうなんですけどね…。でも、久美さんがボクのこと好きかなんて、わからないですし」
「…わかンだろフツー」
決まってるじゃねえか。オレと、同じ眼をしてやがんだからよ。
「そ、そういいますけど! もし違ったら、もう会ったりできなくなるじゃないですか…いやですよ、そんなの」
「…じゃあオレ様が聞き出してやるよ。それでおまえ、もし久美ちゃんがおまえのこと好きだっつったらよ。言いにいけよ。ボクもですってな」
(オレ様の気持ちなんざこれっぽっちも知らねえテメーが悪ィとは言えねーけどよ、さすがにもう待てねえんだわ。はやいとこトドメさしてくれよ、なァ)