21:夏に奪われた
魚にでも食われちまえば良かったんだよ、おまえ。跡形もなく消えてりゃあオレ様がンなに落ち込む必要もなかったじゃねえか。帰ってくるってよ、思ってりゃア別に耐えられるもんなんだぜ。五年でも十年でも待たしゃ良かったじゃねえかよオレ様を。すぐ戻ってきますから何て言って、結局おまえ、轢かれてりゃあ世話ねえだろーが。小者の癖してガキ助けて撥ねられたって、おまえ、オラァてめえの母ちゃんに何て言ってやりゃあいいんだ。
まあガキの母親はよ、感謝してたぜ。テメーの不注意で手ェはなしてんだ、正直、おまえじゃなくてよ、あのガキが死んでりゃ良かったと思うけどよ。さすがに一人息子に死なれた母ちゃん前にして言えねえし、旦那も死んでてめえも死んで、ひとりで残されてる母ちゃんがちっとも泣かねえからオレ様だって泣けねえしな。できねーことばっかで嫌になるぜ、まったくよお。それもこれも全部テメーのせいだからな一歩、覚えてろよ。
ああ、でもな。今でもときどき、おまえが帰ってくるんじゃねえかって思うときがあンだわ。だから引越しなんかもできねーで、引退してるってのに未だにボロアパートに住んでんだぜ。意外と健気なオレ様に感動して泣けよな、おまえ。そんでもういっぺん鷹村さんが好きって言ってくれよ一歩。
22:濁る水
鱗が剥がれ落ちるように、人間味がひとつずつなくなっていく。ボクの中でまだ埋葬されていない記憶と感情が、明日にもすっかり記録と記号に変わってしまうんじゃないかと、ひとり眠れぬ夜が今日もあけていく。カレンダーに印をつけて、良かった、まだ覚えてるなんて確認しなきゃならないこの身体には、もうあぶらしか流れていないんじゃないだろうか。
なんでボクが兵器にならなきゃならなかったのかなんて、もうとっくの昔にどうでもよくなってしまったけど。皮膚と肉とをつきやぶって、機械の一部が顔を出してしまったらどうしようとか、この頃は考えなくなったけど。それでもやっぱりいちばん大事なことを忘れてしまうんじゃないかっていうのはまだ心配できるから、意味がないことなんて知っていて、やっぱりカレンダーに一言付け加えてしまうんだ、あなたのなまえを。ボクはいつまであなたのことを呼べるのかなんてはっきりしないから、いっそはやく終わってしまえばいいのになんて思うけど、でもやっぱり、できれば最期まで一緒にいさせて欲しいなって思うんです。
「あの! 鷹村さん、その。ちょっとだけ付き合ってくれませんか?」
あなたのためにいっぱいひとを殺すから、愛してほしいなんて言わないから、ボクがあなたを好きなことぐらい覚えていて。
23:脱ぎ捨てたものは
好きなのに別れるっていうのは都合の良い嘘なんだなあと一歩は思った。ドラマや映画の恋愛で、あなたのことは好きだけどもう一緒にはいられない! なんて叫ぶヒロインがいるけど、きっとそんなことはないと一歩は感じた。多分、努力が足りなくてお互い歩み寄れなくなって、傍にいるのが辛くなっただけなんだろうなと思うのだ。
今の、自分たちのように。
「鍵、そこに置いとけよ」
いつもと変わらない鷹村の言葉に、普段のように一歩は従った。鷹村はぐずぐずすることを嫌うので、すぐに言われた場所に合鍵をおく。あけるためではなく、かえすために太田荘の鍵に触れるのははじめてだった。ほんの少しの新鮮さが日常にとけこんで、跡形もなく消えようとしている。
一歩は、一瞬だけ下唇を噛みしめた。
「つくりおきしてあるカレーは捨てちゃってもいいですから」
「ンなこたあしねーよ。もったいねえだろ。ちゃんと食うっての」
さっぱりとした鷹村の言葉には、ほんの少しやさしさがにじんでいるような気がした。最後になってそんなに寂しいことを言わないで、もっと前から今のように優しくしてくれるだけで良かったのに。一歩のそんな恨み言がすうっと腹の奥で鎮まっていく。
明日からもきっと鷹村との関係はあまり変わりがないだろう。自分達はそんなに恋人らしい生活を送っていなかったから、たぶん前の関係に戻るだけ。きっとジムでは普通に会話して、ときどき飲みに行ったりして、面倒だったら部屋に泊まるような。でもキスとセックスだけはしない、そういう関係に戻るのだろうという予感が一歩にはあった。
「じゃあ、さようなら。鷹村さん」
「おう、気ィつけて帰れよ一歩」
終わりというにはあまりにも劇的でない別れに、一歩は「こういうものなのかな」とぼんやり考えた。
24:猫撫で声で名前を呼ぶ
「一歩ォ、なあ拗ねンなよ。一歩せんぱーい…だめだ、ちと笑いすぎて腹が痛えや、だはは」
こらえていたせいか、鷹村はまた盛大にふきだした。またというのは、もう三度目になる大笑いだからである。一歩がじとっとした視線をくれてやったところでまったく気にしないあつかましい後輩は、むしろそうしてにらまれてはひいひいと腹を抱えて転げまわるので、一歩はもうあきらめていた。
ため息ひとつこぼして、一歩が自分の真正面で寝転がっている鷹村の方を見る。
「…そんなに笑わないでよ鷹村くん。ボクだって気にしてるんだからね」
「い、いいじゃねえか別によ。若く見られるってこたあアレだろ」
公共料金は学生割引でおトク! なんてなあ! と鷹村が言った。完全に面白がっている様子に、一歩はもう一度ふかくため息をついた。四つも年上の、しかもジムの先輩を相手にしてこの態度である。一歩は怒りを通り越して「ボクも鷹村くんぐらい自分勝手に生きられたら楽なのになあ」と脱帽してしまった。傍若無人でオレ様タイプになりたいとは思わないが、それでもその図太さをすこしぐらい分けてもらいたい。一歩はつい先ほどの出来事を思い出しがくっと頭をさげた。
どうも鷹村は青木か木村あたりから情報を仕入れたらしく、たまたま鉢合わせたコンビニでいきなり一歩の首根っこをひっつかんだかと思いきや、目をまあるくさせているレジのアルバイトに向かって「こいつよォ、いくつぐれーに見える?」と聞いたのだ。がっちりホールドされたまま爪先立ちになっている一歩が文句を言おうとするたびにぎゅうっとしめられるため、うううという情けない声をあげることしか出来なかった。
鷹村がそのままずいずいとレジの定員にせまるので、一歩としては「ああ、会長にボクが怒られる!」と内心焦ってもいた。しかし結構はやい段階でアルバイトが「あの、弟さんですか? 高校生くらいかな?」と口にした。
明らかに趣味の悪い私服を着ている大男につめよられてよく会話ができるなあと一歩は感心した。
しかし次の瞬間には店内中にひびく大笑いがおきたので、欲しいものも買えずにコンビニをあとにしたのだ。勿論腹を抱えてしゃがみこむ鷹村をひっぱって。
「しっかしよォ。傑作だなオイ! 弟だってよお!」
恋人の間違いだっての。なあ?
鷹村がニヒルな笑みをうかべるので、一歩はワガママな彼の額を人差し指ではじいてやった。
25:残り香
「…おい、どういうことか説明しろよ」
宮田の腕の中でぐったりとしている一歩の姿を見て、鷹村が苛立ちをあらわに低く吼えた。彼の右手には携帯電話が握り締められている。手の中でミシミシと音をたてていることに気づかないほど、鷹村は激昂しているようだった。
目がつりあがって凶悪な顔つきになっている鷹村を見て、宮田は悪びれもせずに口を開いた。
「別になんでもないでしょう。たまたま外であって、気が向いたから誘っただけですよ。…まあ、吐くまで酔わせて抱いたんですけど」
鷹村の目がくわっと見開いた。ぎりぎりと奥歯を噛みしめる鷹村に、宮田は胸のうちがすうっとするのを感じた。鷹村のことはボクシングでは、今もまだ尊敬している。しかしそのまま一発でもオレを殴ってもっと惨めになれよとも思っているのだ。いびつな笑みが宮田の表情を崩す。人を馬鹿にした態度に、鷹村の顔色が変わる。
鷹村はそのままずかずかと無言で近づいて、勢いよく宮田の胸倉をひっぱりあげた。宮田に身体をあずけていた一歩が崩れ落ちるようにずるりと動いた。真っ青な顔と、鬱血だらけの首まわりが鷹村の目に飛び込んでくる。
「てめえ…! ぶっ殺されてえのか、宮田ァ!」
「ひとのこと言えないでしょう、鷹村さんは。…オレの女寝取ったくせに、言えるのかよ。あんた」
鷹村が一瞬怯む。ついで宮田の寝室の壁に拳をうちつけた。邪魔なものを払うような乱暴なぶつけ方に、本棚から数冊雑誌がこぼれおちた。
「言えるもんなら、言ってみろよ」