Title*

36:柔らかな波

 時間が経つのはあっという間なんていわれても、ボクの時計はあなたがいなくなったときに動かなくなってしまった。支えてくれるひともいて、励ましてくれるひともいて、これ以上何が欲しいのなんて聞かれたってボクがいちばん望んでいるのはあなただけだから、だれにもどうしようもないのに。いくら伝えてみてもみんなわかってくれなくて、ボクが困ってしまうとみんな泣きそうになってしまうから口にはしないけど、もうあなた以外じゃだめなんですよ。鷹村さん、なんでボクを置いていってしまったんですか。
 なんて、そんなことを言ったらあなたを困らせてしまいますよね。ごめんなさい。
 朝起きて、夢じゃなかったことに落胆して、ひとりあなたの思い出をなくさないように、忘れないように何度も反芻して、そういう毎日を送っているボクをみんな気にかけてくれるけど。でも鷹村さんのことを考えてるときがいちばん幸せで。
 今はもう死んでしまいたいなんて思わないけど。でもやっぱりいつむかえにきてくれるのかなあなんて考えてて、そういうときが一番落ち着くんです。
 もういっかいだけでいいから、名前を呼んでもらえたらそれでいいんですけど、でもそれも無理だから。あなたがどんなふうにボクを呼んだっけって思い出すときが、一番切ないけど嬉しくて。ボクのなかではまだ、鷹村さんが生きてるんだなあって実感できて、まだ死にたくないなあって思うようになったんです。
 さみしいときもあるけどなるべく頑張りますから、心配しないで、待っていてくださいね。(本当は今すぐにでも会いにいきたい、けど)


[ end ]


37:夢の中なら玩具にできる

 あまりにも無防備に一歩が寝ているので腹が立った。苛立ちを抱えたまま奥歯を噛みしめる。「その首へし折ってやろうかこの野郎」と思ってのばした指先が、あろうことか震えていることに気がついて慌てて鷹村は手を引っ込めた。
 ベンチに上半身をもたれさせて、一歩は両腕を枕にすやすやと寝ている。そのアホ面を眺めて、鷹村はため息をついた。
「ったく、こいつはよォ。人の気もしらねえで居眠りたあ何様だってんだ」
 落ち着いて、じっくりと一歩の顔を見るのは久しぶりだった。鷹村が意図的に二人きりになることを避けていたので、それも当然かと独り言ちた。フンとはなを鳴らして、なるべく音をたてないようにゆっくりとベンチに腰をおろす。

 鷹村が一歩をそういう目で見ているんじゃないかと自覚したのは、丁度新人王戦の頃だった。
 高三にもなってまだ学生服に着られているような後姿からなんとなく目が離せなくなった。まごついてるその背中を押してやりたくなった。そのうち助けるだけではあきたらなくなって面倒みてやりたくなった。そこまでいけば後はもう加速度的に進行していって結局「あー。こいつのこと好きなのかオレ様は」と気づくはめになった。
 思ったよりもすんなり受け入れてしまえた気持ちの変化に、今更ながら鷹村は戸惑っている。
 一歩はそのうち間柴の妹とうまくいくだろうという予感があるのだ。それも外野が何もしなければ早いうちにまとまるような気がする。
 そう思うと横からさらっていくようで、自分の気持ちが後ろめたくなった。今まで他人のものにちょっかいをかけるときですら罪悪感なんてものを持ち合わせていなかったというのに、一歩に関しては鷹村はがらにもなく慎重だった。
 言ってしまえば楽になるだろうに、なんとなく言い出せない。多分こいつは悩みまくった上で断ってくるだろうから、変に意識させるよりかはこのまま何も言わない方がいいだろう。そう考えてしまうことの方が多かった。
 ただ多いというだけで、自分のものにしたくないのかと言われれば、鷹村はまだ自分の感情を把握し損ねているので何ともいえなかった。
「…ぼちぼちあきらめてやるからよ。なるべくオレ様に隙なんざ見せんなよ一歩」

 一歩の頭をなでようとした手を彷徨わせ、結局、鷹村は一度も触れることをせずに席を立った。


[ end ]


38:宵闇遊戯

 言っちゃいけないことなんてありすぎて、もう口もきけないかもしれない。そんなことをぽつりと呟いた一歩に、今夜の相手が「元気ないね」と声をかけてきた。一夜限りの身体の関係なんてものは高が知れているので、互いに干渉しないのがマナーだろうに男はひどく優しそうに一歩にたずねてきた。
 それがあまりにもすんなりと一歩のうちがわに入ってくるので、つい口を滑らせてしまいそうになる。
「あ…。えと大丈夫です、とくに何も」
 男は「そう?」とだけ言って「それならいいんだけど」と着替えを続けた。ワイシャツにスーツ。男の後姿を見て会社勤めなのかなと一歩は思った。そもそもそういう場所で声をかけられたときに相手の服装ぐらい目に入っているはずなのに、一歩がそのときそのときの相手をよく見ることができるのは、きまって体をあわせた後だけだった。慰めてくれるなら誰でも良いという本音は露骨すぎると一歩は感じた。
「あ、そうだ。言い忘れてたんだけど」
 男がすこし愉快そうに笑ったので、一歩は小首を傾げた。
「ボクね、学生時代にボクシング部だったんだ。強くもなかったし才能もなかったし、楽しんでただけなんだけど。今でもよく雑誌とか試合とか見ていてね。それで君のこともすぐにわかって…」
 もし良かったら、きみが他にいいひとを見つけるまで一緒にいられないかな。
 男の、目を細めて笑う仕草がとても木村に似ていた。知ってるひとと似てる相手を選んでしまうとあとで意識しちゃって嫌だったんだけどなと一歩は思った。
「…すみません。こういう関係になるのは一度だけって決めてるんです。だから」
 男はまた笑いながら「そう。なら残念だけど仕方がないねえ」と言った。

 もしも、このひとが鷹村さんに似ていたら頷いてしまったんだろうなあと一歩は苦笑してしまった。


[ end ]



最終更新日2011年02月27日