39:落月のようにあなたへ沈む
「まあーたろくでもねえことで悩んでンだろおまえ」
オラ、落とすんじゃねえぞと言いながら、鷹村は一歩のはなづらにずいっとコップを近づけた。よく冷えた緑茶がなみなみとつがれたそれを手渡されて、一歩が「ありがとうございます」と呟く。
「ったく、落ち込んでんのも良いけどよ。ちったあオレ様との時間を楽しみやがれってんだ」
どかっと腰をおろした鷹村が不満を口にした。唇をとがらせてはなを鳴らすので、一歩があわてて鷹村の方を見る。
「す、すみませ」
「あー謝ンなくていいからよ、さっさと言っちまえよ」
なんか不安なんだろ? そンぐれえ聞いてやるから言えよな。そう鷹村に促されて、一歩が「わ、笑わないでくださいね…?」と口をひらいた。心なしか気恥ずかしそうな表情に、鷹村の口角がゆるむ。
「ゆ、夢をですね。最近見たんです…た、鷹村さんの」
夢だあ? 一瞬言ってしまいそうになった言葉を飲み込んで、鷹村は一歩に続きをうながした。
「その。あの、なんかボクが…あの、嫌われちゃう夢で。そ、それでですね、それがちょっとリアルだったといいますか…」
「じゃあ何か。てめえは夢ン中のオレ様に愛想つかされておどおどしてやがったのか」
はあーっというわざとらしいため息に、一歩がびくりと肩をゆらした。顔を真っ赤にしている一歩を見て、鷹村がぶはっとふきだす。少々品のない笑い声をあげる鷹村に、一歩は「だ、だから笑わないでくださいねって言ったのにぃ」と半べそをかいた。
「ンな屁でもねえことでいちいち悩ンでんじゃねーよターコ。だいったいなあ、オレ様自ら手間隙費やして口説き落としてるってのになーんで不安がるかねえ一歩くんは」
一歩の頬がさらに赤くなる。うううとちいさく唸っている一歩に、鷹村は「オレ様を寂しくさせた罰だ。今日ぐらい泊まってけよ」と囁いた。
40:リミッター崩壊
あ。やばい。一歩がそう感じ取るときはだいたい鷹村のスイッチが入ってしまうときだった。いつどこでなにが原因なのかは未だによくわからないが、電気のON・OFFのように突然切り替わるスイッチが彼にはあるのだ。そして一歩はそれを、そうとは知らずにおしてしまうことが多かった。
「なあ、今日青木と何話してた」
抑揚がなくなった鷹村の言葉はひどく低くて聞き取り難い。一歩は左手の親指の爪をぱちんと切りながら「どうしたんですか」とたずねた。ぱちんぱちんというちいさな音にすらかき消されそうな鷹村のつぶやき。それが本当に怖くてしかたがなかった。
鷹村が黙っている。一歩は、今すぐにでも逃げ出したい衝動にかられた。しかしそれとは裏腹に、彼の足はまったく動かなかった。
ほんの少しでも身じろげば殺されてしまうんじゃないだろうか。そういう物騒な想像が、一歩の身体を床に縫い付けていた。
ゆっくりと爪をきる、その音が一歩をせかす。激しい動悸に手元が狂いそうだと一歩は思った。
「ちっと気になったんだよ」
なあ。なに、話してた。二度目の繰り返しは警告のようなものだ。なにか、言わないと、いけない。
鷹村の言葉に一歩がいきおいよく顔をあげた。
「あ、…ぼ、くの試合! そろそろ決まるんじゃないかなって話を、あの、青木さんが八木さんから聞いたって言ってそれで! ど、どんな相手なのかとか防衛戦、まだ続くのかなとか、そういうのをですね、いっぱいお話ししててですね。や、やましいことなんてなにも」
震える唇で何とか説明する一歩に、鷹村は「ふうん」とだけ言った。たったその一言で一歩は口を閉ざした。この状態の鷹村には何を言っても駄目かもしれないと悟ったからだった。
重苦しい空気のなかで、鷹村が自分の眉間を指でとんっとはじいた。
「ときどきよ、オラァぶちっといっちまうときがあんだよな。ンで、なるべくならそーいうのはナシにしてえんだけど。まあ…やっちまったら謝っとくわ」
(殴られたり蹴られたりするのがボクなら耐えられるのに、どうしてあなたの矛先はそとに向かってしまうんですか鷹村さん。あなたが本当にひとを殺してしまうなんて思ってないけど、でも、ときどき鷹村さんのことをボクは信じられなくなるんですよ)
41:累夜の果て
男同士では受け入れる側の身体に負担がかかるということもあり、鷹村は一歩に挿入にいたるまでのセックスを求めることが少なかった。たいていはペッティングですませるか、ついばむようなキスを繰り返すだけでおわる。つながれない分スキンシップに時間をかけて、あとは同じシーツの上に身体を横たえて夜を過ごす。
鷹村との生活は、一歩が考えていたものよりもずっとあたたかで穏やかなものだった。
腕の中で一歩が眠るまで髪を梳いてくれる鷹村に、一歩は何の不満も持っていない。
身体をいたわってくれることも、ふたりきりのときは普段よりもやさしい表情を見せてくれることも、恋人という関係になってはじめてわかったことだった。一緒にいるだけで好きという気持ちがふくらんで、破裂してしまいそうになる。ある意味ではそれが一歩の唯一の不安だった。
あまりにも幸せで、失うことを恐れるあまりこのまま一緒にいてもいいのか、この関係はいつまで続くのだろうか――そんな後ろ向きなことをついつい考えてしまうのだ。
たぶん、言ったら怒られるんだろうなあ。
鷹村の頭を抱え込んだまま、一歩はそんなことを思った。たまにはオレ様にも腕枕しろよといって一歩の左腕を枕にした鷹村はぐっすりと寝入っている。疲れているのか、一歩がわずかに身じろぐ程度では目を覚ます気配すらなかった。
「ねえ、鷹村さん。嫌いになんて、ならないでくださいね」
42:恋情が心を焦がす
近づきすぎれば命を落とすということを蛾は知っているのだろうか。
白熱灯にひきよせられてはその周辺をふらふらと飛び回り、しまいには燃え死んでしまう鱗翅類は、どんなことを思って地面に落ちていくのだろう。
ジムを出て帰路につく道すがら、一歩はぼんやりとそんなことを考えていた。
すっかり暗くなってしまった空を見上げると、歩道のわきに立てられている街路灯に群がった虫たちが目にはいる。ジジジ、という何かがこすり合わさるような鈍い音のあとに、ときおりばちんっとはじくような音が続いた。
ちいさな火の粉がぱっと散る。あかるさに吸い寄せられた蛾が燃えてしまったようだった。一瞬のうちに短い生涯を終えた虫を、一歩は自分のことのように思った。実ることのない恋を抱えたまま、それでも鷹村に焦がれている自分の末路のように見えたのだ。
蛾が一歩だとすれば、暗い夜は今まで一歩が置かれてきた環境だ。
現状を良くしたいと思っても、鷹村と出会う前は長年染み付いてしまった負け癖が一歩にあきらめさせていた。それが明けない夜であるなら、救い出してくれた鷹村は、あの街灯に違いない。暗闇を照らし出して道を示してくれた彼は、一歩にとってまさに光そのものだ。
ほんのわずかな時間で一歩をぬりかえてしまった鷹村に恋をしたのは自然な流れだったと一歩は思っている。しかし一般的に考えればそういった感情を発露する相手を間違えているということも知っていた。
常識と心情とがせめぎあって、一歩を板ばさみにしていた。今はまだほんの少し理性と世間体とが一歩を縛り付けているが、そのうちそうした努力もすべて水の泡になるということをうすうすながら一歩は感じていた。
はやく、焼き殺されてしまいたい。
43:ローズマッダー
白いシーツの上に点々とさいた赤いはなを見つめて、思い出したのはちいさな頃のゆめだった。幼稚園の先生がこどもたちに描かせた将来のゆめと絵。一歩のゆめは、お嫁さんになることだった。
高校を卒業した一歩は今年で18になる。少女というにはとうに雌としての機能が成熟している、けれど大人の女性というにはまだまだ足りない、そういう年齢だ。破瓜をむかえる頃合としてははやいのか遅いのか、それさえも一歩はよくわかっていなかった。
「よかったのかよ」
直に肌に触れたため、一歩は鷹村の体温を知っている。行為をおえて着替えもすませてしまった今も、衣服ごしにあつい胸とかたい腕の熱を思い出して一歩の頬はさっと恥じらいの色に染まっていた。
鷹村の顔をまともに見れない。か細い声でぼそぼそと話す一歩をぎゅうっと抱き込んだ鷹村が「ん?」ともう一度うながした。
「あの、えっと…」
消え入るような「はい」という返事に、鷹村はほっとしたように息をはいて「そーかよ」と言った。低い声がいつもよりも大人びていて、知らない男の人のようだった。腕の力強さも知っているのに一歩の動悸ははげしくなるばかりで、いっこうに落ち着こうとはしてくれなかった。
「本当はよォ、もちっと我慢するつもりでいたんだが…この際だしな」
籍、入れちまうか。
鷹村の言葉に驚いて一歩が顔をあげると、鷹村は穏やかな表情をしていた。愛しいものを見るように細められた目と、一歩のまあるくなった目が交差する。あまりにも優しい鷹村に、一歩は首まで真っ赤になってしまった。
鷹村がゆっくり口をひらく。
「おまえが二十歳になったらプロポーズしてやろうって思ってたんだけどよ、あと二年も待ってンのは正直焦れってえんだわ。式はあげらんねえけど、なるだけ早いうちに着せてやっから」
オレと一緒になってくれ、一歩。
ウエディングドレスを着た自分を想像して、一歩は目を潤ませた。ドレスをまとった一歩のとなりには、好きで好きでたまらない鷹村がいる。一生分のしあわせをあつめてもまだ足りないかもしれないと一歩は思った。
じんわりとにじむ視界に、鷹村がとけてしまう。一歩はこぼれそうになる涙をゆびでぬぐった。