Escape×2 第一話
うわあああ! と叫びながら宮田の方へと走ってきたのは幕之内一歩だった。普段の彼であれば宮田めがけて駆けてくることはあっても、宮田を素通りして走り抜いてしまうことはない。
しかし今日はあらゆる意味でいつもとは違う状況下だ。宮田は嫌な予感に突き動かされて勢いよく振り返った。全力で駆けてくる一歩が見る見るうちに近づいてくる。その後ろに見える魔物の気配を感じ取って宮田は小さく息をのんだ。
「ごめん宮田くんどいてええええ!」
「ばっ馬鹿野郎! お前がこっちにきたら…!」
オレが巻き込まれるじゃねえか! 宮田のもっともな言葉に、周囲からは笑い声があがった。
例年年末の特番というのはお笑い芸人や大物俳優がバラエティにとんだ番組を生放送で流したりするものだ。その年に盛り上がったスポーツ業界から功績を残している有名選手を招いて、番組特別のルールで競わせたりすることもしばしばである。
そのスポットが今年はボクシング界にあてられた。CMに引っ張りだこの世界王者をはじめ、連続防衛を果たしている東洋太平洋王者にそろそろ世界獲りが噂されている日本王者など、活躍している選手が多かったためだ。しかし活躍だけで考えればその他の業界にも光る成績の競技者は数多くいる。
なぜ今年はボクサーで特番が組まれたのか。それはひとえに、ファッション誌の表紙にもたえうる容姿を持った選手が多かったことにある。
そのそもそものきっかけは、川原ジムがとある女性誌の取材を受け入れたことにあった。
取材内容は、東洋太平洋フェザー級チャンプへ、つまりは宮田一郎への簡単なインタビューと写真撮影をさせて欲しいというものだった。はじめはあまり乗り気ではなかったジム陣営だが、短時間であることと、破格のギャラを支払うという条件のよさに、結果的には当人をまるめこんで日取りを決めることとなったのだ。宮田本人がどれほど嫌がろうとも、これも仕事のうちだと言われてしまえばそれまでなのである。
結果、宮田の特集が組まれた雑誌の発行部数が人気アイドルが表紙だった先月のものよりもぐっとのびたことから、女性誌でとある企画が立ち上がることとなった。それが毎月数名各スポーツ業界から一人ずつ選手を起用して、人物像を絞り込むというものだった。
当然この時点ではボクサー以外にも水泳選手や陸上競技者が何人か紹介されることとなったのだが、生憎宮田が表紙を飾った時よりも売り上げはのびなかったらしい。
それに頭を悩ませた編集の方から川原ジムへと再び電話がかけられた時、宮田がインタビューを受けてから実に4ヶ月あまりが経過していた。
宮田レベルのボクサーを紹介してくれないかという懇願に、川原ジムの会長が教えたのは鴨川ジムの連絡先だった。
もっともこの時は両者の認識の違いがあり、雑誌社側の要求は宮田と同等もしくはそれ以上の容姿を持った者を紹介してほしいというものであって、東洋太平洋王者以上に強いボクサーをという話しではなかったのだが、結果的にまるくおさまったのでこの場合は良しとしよう。
とにかく、鴨川ジムに女性誌からの取材がしたいという話しがきてからが早かった。活気付いているという点においても一、二を争う層の厚さを見せる鴨川ジムには、二階級制覇の鷹村守と素人でも楽しめるような派手な試合内容になることが多い日本チャンプ・幕之内一歩が在籍している。タイトルマッチ経験のある選手もいれば、期待のルーキーもそろっているので何かと話題には事欠かないのだ。
女性誌の編集者が月刊ボクシングファンの藤井と懇意にしていたことも手伝って、しぶしぶながらも会長である鴨川が承諾してからはとんとん拍子に事が進んでいった。よほど困窮していたのか、鴨川ジムに打診がきてからわずか二週間で取材の段取りも整ったのである。
ここで鷹村がいつものワルノリを見せていれば、現状は少しばかり違ったのかもしれない。しかし思いのほか気合ののった鷹村は、スタイリストに従ってきっちりと用意された洋服を身にまとって取材に臨んだのだ。
もともと端整な顔立ちをしている鷹村は、黙っていさえすれば品のある容貌をしている。育ちの良さがでるのか、一山いくらの青年ユニットが束になったところで勝てないような雰囲気を持っていた。均整のとれた体躯と野性的な目つきの魅力は、女性なら一度は抱かれたいと思うものだ。平生でそれらすべてを台無しにしている性格は、写真になれば表にあらわれることはない。
週刊誌で数々の醜態を曝していた鷹村のモデルのような写真うつりで女性誌の発行部数は瞬く間に跳ね上がった。そもそも鷹村自身がテレビ番組への出演を精力的に受けていたため、各番組でも女性誌での特集が話題にあがり、あれよあれよという間に鴨川ジムの名前が一般に知られるようになったのである。そこに目をつけた編集者が、鷹村だけでなく一歩にも注目したのだ。
練習風景を撮った一枚に鷹村にじゃれつかれている一歩の姿が写っており、その一枚に対して数件の問い合わせがあったことも決め手のひとつと言っていい。
ともかくそうしたじわじわとした露出の結果、他の雑誌でもボクサーが取り扱われることが多くなり、何となくボクシングに関係した雑誌以外からの取材が多くなってないかと思い始めた矢先のことだった。年末の番組からオファーがきたのは。
台本なしの生放送で、本番は三時間の撮影のみという条件を提示されれば断る理由もなくなる。番組内容も詳しくは明かされなかったが、身体を動かす類のものらしい。
もともと渋い顔をしていたのは鴨川会長のみで、マネージメントに携わっている八木からしてみれば出演する選手一人ひとりに支払われるギャラや、ジムに入ってくるだろう収入を考えても断るのは得策ではなかった。待遇の良い話しを蹴ることができるほど、ジムの経営は潤っているわけではない。
飛びつくように賛成する八木に気圧されて鴨川が了承するのに、さして時間はかからなかった。
当日は各ジムに迎えがくるということで参加者すら事前に知らされてはいなかったのだが、そんなに大規模なものではないだろうと高をくくっていた鴨川の面子は初っ端から度肝を抜かれることとなった。
塗装も大げさなバスが到着し、目的地に着くまではアイマスクを着用するというのだ。話し声もNGだと説明するスタッフに手を引かれつつ着席し、定期的に停車しては何やら乗車させているという様子しかわからないことに、楽観視していた青木や木村にも緊張が走る。
一歩の隣の席で聞き覚えのあるいびきをかいているのは鷹村だろう。バスの中には独特の空気が流れており、重苦しい気配があるというのにその余裕である。すでにうろたえている一歩は、あらためてすごい人だなと思った。
バスをおりた一歩たちが聞かされたことといえば、今から1時間30分全力で鬼ごっこをしろということだった。ただし一般的な鬼ごっこのルールではない。ゲームが開始した直後、鬼の人数は三人のみと少ないがその後は10分ごとに増員していくというものだ。そして鬼の上着には罰則が書かれており、つかまった場合はその罰則を受けなければならないらしい。
ぼんやりと説明を聞いていた一歩は、隣に立っていた青木に小声で話しかけられた。
「なあオイ。何て言ってんだ、あれ」
聞きもらしちまったとばつの悪そうな表情を浮かべる青木に、一歩が簡潔に説明してやる。
「えっと。例えば鬼の上着にビンタって書いてあった場合、捕まえられたらビンタされるんですって」
「マジか。それじゃあアレか、抵抗せずにやられろってことか」
「多分そういうことじゃないかと」
途端に青木の顔がやる気を失くした。避けちゃならねえのかよとぼそぼそと呟いている。司会進行を勤めている芸人に「そこ! 私語を謹んで!」と指摘されたので、一歩はあわてて何度も頭をさげた。
あたふたとした様子に、会場のスタッフから笑いがこぼれた。
「それでは、スタート! といきたいところですが、今回はボクシングの有名選手の皆さんに協力していただいてるのでさらに特別仕様となっております」
ジャジャン! というわざとらしい音響の後にスポットライトが司会者を照らす。
「我々だけでプロの皆さんを追いかけてもうまーくかわされてしまうので、鬼役を数名皆さんの中からこちらで選ばせていただきましたあ!」
喚声があがる中で、木村はあたりを見回した。みるみるうちに青ざめていくその顔に、青木が声をかける。一歩が後ろを振り返ると、今にも倒れそうな木村が口をひらいた。
「おい。よく見てみろよ、鷹村さんの姿がねえ」
一歩が息をのんだ。青木の表情もかたい。二人とも示し合わせたかのようにばばっと周囲を探してみたが、木村の言ったとおり、鷹村の顔は見当たらなかった。バスに乗る時は確かにいたはずなのに、と懸命になるもののやはりどこにもその姿はない。
「つーことは何か。あの人鬼かよ」
「まんまじゃねえかよ! チクショウ、絶対につかまったらやべえぞこれ」
たかがゲームされどゲームと言えども、ことこういった遊びに対して鷹村が全力を出すことを身をもって知っている鴨川ジムのメンバーはそろって身震いした。
大晦日の夜ということで、会場になっている廃校とグランドには冷たい風が吹き付けている。しかし番組用のダウンに身を包んだ三人にとって、それはさして関係がなかった。彼らの歯の根が合わないのは、一瞬のうちに脳裏に描かれた理不尽大王からの仕打ちによるものである。
「こりゃあ真剣にならねえと危険だな。気ィつけろよ一歩」
「は、はい。木村さんたちも頑張ってください」
「おう。とりあえず野郎にゃあ捕まらねーようにしないとな」
司会者の合図とともに、逃げ惑う参加者たちの長い夜が始まろうとしていた。