Escape×2 第二話
今回一歩たちが動き回っていい場所は廃校の校舎とグラウンドに限られている。番組の途中からは逃げる者よりも追う者の方が多くなることを考えると、いささか狭いようにも感じられた。もとより逃がすつもりはないのだろう。捕まえられたら退場するというルールではないため、鬼から逃げる一歩たちは何度も罰則を受けることになる。いくら鈍感な一歩でも、制作側の意図として罰則を受けているシーンを撮りたいということぐらいはすけて見えた。
「うう、結局木村さんたちとはぐれちゃったよ…」
はああとため息を吐きながら一歩は俯いた。司会者のスタートを宣言する叫び声にあわせて現れた鬼三人から逃げるため、なりふり構わず走り始めたのが悪かった。気がつけばジムの先輩達の姿はどこにもない。知り合いの姿もいまだに見つけられていないことから、一歩の心細さは大きくなっていた。
一箇所にとどまっているよりも動き回った方がいいような気はするのだが、物陰に隠れていたくもなる。そういえば小学生のときはいじめられても逃げるというよりは隠れてばっかりだったなあ、とちょっと悲しい過去を思い出しつつ体育館裏で一歩は足をとめた。
階段の下に人ひとり分のスペースがある。しばらくここで休もうかなと一歩が足を踏み入れた瞬間だった。身を潜めようとした場所からぬうっと人影が現れたのは。
「……!」
声にならない悲鳴をあげて、一歩が中腰のままスウェーバックの要領で上体を反らす。しかしそれを上回る間合いの持ち主はあっさりと一歩の胸倉をつかみあげて引き上げた。ダウンの襟首が喉元に食い込むので、ぐうっと低いうめき声がこぼれた。
一歩の耳にちっという舌打ちが聞こえる。おそるおそる目をあけた一歩は息をのんだ。
「ま、間柴さあん!?」
「でけえ声でわめくんじゃねえよ」
心底煩わしいというように手をはなされて、一歩は緊張した面持ちのまま謝った。何やら非常に苛立っているらしい間柴はそれにすら一瞥をくれて、その後は不機嫌面を隠さずに仁王立ちしていた。言いようのないひけめを感じた一歩が身体を竦める。
「あ、あのですね。その、間柴さんは…」
鬼ですかとは聞けない。口が裂けてもいえない単語にまごついている一歩に、間柴はもう一度舌打ちをした。
「見てわからねえのか、日本フェザー級チャンピオンさんよお」
完全にがらの悪いチンピラの言い回しだった。久美と一歩が一緒に歩いている時よりも不愉快そうな顔には青筋も浮かび上がっている。
一歩の嫌な予感どおり、間柴の上着は黒かった。闇にまぎれるような色は彼にはよく似合っているが、怖すぎた。青白い顔がぼうっと浮かび上がって見える。でかかった悲鳴を飲み込んで、一歩はそろそろと間柴の胸元を見やった。
しっかり罰則が記してある。一歩は一瞬で間柴がいつになく苛立っている理由を悟った。
ハグとだけ書いてあるのだ。たった二文字の破壊力は凄まじい。一瞬意識が飛びかけた一歩は、開始早々の悲運に心中でそっと涙した。
ちょうど自宅でテレビをつけた久美が目撃して、兄と思い人の熱烈な抱擁に悲鳴をあげたのは言うまでもない。
一歩が間柴に抱きすくめられて生きた心地のしない時間を耐えていたとき、宮田は自分と相対している男の手から逃れるために神経を研ぎ澄ませていた。遠慮のない拳が空を裂いて襲ってくる。雄たけびをあげながらジャブを繰り出してきたのは千堂だった。
「ちょお待てえや自分、ちょこまかと逃げくさりおって」
「馬鹿かお前。そういうルールだろうが」
短い言葉なれど小馬鹿にした口調の宮田に、千堂の目がつりあがった。ブチブチと血管が切れる音が今にも聞こえてきそうな形相で口角をにいっと引き上げる。試合さながらの気迫に、スタッフの方があわくった。捕まえるというよりも、もはや殴るために出されている千堂の両手はまさしく凶器だ。グローブがない今、一発でも入ってしまえば大変な事になる。
口では余裕をみせている宮田もそれを知っているので、わざわざもらってやる気は少しもなかった。そもそも千堂の上着には握手と書かれているので、捕まること自体全力で回避したい罰則だった。
しかしルールに則っていると防戦一方の宮田の方が不利である。元来負けず嫌いで短気な宮田には、そっちの事情の方も耐えがたかった。千堂がためらいもなくうってくるスマッシュにカウンターをきめてやりたくなる。
宮田の目が一瞬ぎらついた。
その瞬間に、二人の間にわって入る影があった。千堂の大振りな拳をいなして宮田の肩を軽く叩いた人物は、「おー、いてて。ちったあ手加減してやれよなあ」と拳をながした左手をふって右目を眇めた。ちゃめっ気のある喋り方に覚えのあった二人が同時に目を見開く。
「だ、伊達さん!?」
「な、なんでここにおんねん!? 引退してるんとちゃうか!?」
矢継ぎ早な千堂の疑問に、伊達が「おう」と短くこたえた。からっとした表情でそのまま続ける。
「まあオレも歳だしよ。現役に混じってやんのは正直しんどいんだが…生憎うちのジムにゃあ有望株がいなくってよ。成績もイマイチなんだ。つーことで宣伝がわりに出演したってわけよ」
身近にいたカメラに向けてピースした伊達は「愛子ー! 見てるかあ」と破顔した。棒立ちになっている二人をよそに、自分のジムの宣伝をさらっとお茶の間にむけて発信する。食えない男とはこういう男じゃないだろうかと宮田は思った。千堂は先ほどの勢いも消えうせて「おもろいお人やなあ」と笑っている。
「まっ。とりあえず宮田には悪いがこれやってくれよな」
一通り言いたい事を言い切ったらしい伊達が、自分の胸元をさしてにやりと笑った。人差し指の先にはオカマのモノマネと書いてあった。宮田のオカマ口調を想像したのか、千堂は腹を抱えて大笑いした。涙までこぼしてひいひい笑う千堂にも宮田は何も言えなかった。茫然自失といった様子に、千堂が「相当おもろいもん見させてもらうさかい、ワイの罰則はなしにしたる」と申し出た。
大人しく握手していた方がマシだった。まさに後悔先に立たずという状況に、宮田は冷や汗をかいた。
「木村さーん! 青木さーん!」
「ば、馬鹿! 声がでけえよ一歩ォ!」
気づかれたらどうすんだ! と木村に頭を叩かれた一歩は謝りながらもどこか嬉しそうにしている。先ほどまでの地獄の責め苦から解放されたことと、ようやく鬼ではない知人にめぐり会えたことで一気に緊張がほぐれたのだ。校舎の中でさまよっていた一歩にとって天の助けだった。
会えてよかったあと胸を撫で下ろす一歩の顔をまじまじと見た青木が「お前ずいぶんきれいな顔してんな」と言った。
「おお。そういやそうだ。トロくさそうな癖して逃げきったのかよ」
「一歩の癖に生意気だな」
そう言いった二人の顔には大きな手形がくっきりと浮かび上がっている。生々しく赤くなっている頬に、一歩がぞっとした。
「どうしたんです、それ…」
「ああ。こいつな。さっきウェルター級のヤツにやられてよ」
「野郎手加減なしで思いっきりふり抜きやがった」
まだそのへんにいるかもしれねえから気ィつけろよというアドバイスを受けて、一歩の顔がすうっと青ざめた。
「あと鼻フックの板垣とハリセンの今井も潜伏してっから」
「あれはギリギリの攻防だったよなあ」
「おー。まさかあんなとこから走ってくるとは思わなかったぜ」
鼻フックとハリセンをどう攻略してきたのかを話す二人は、一歩から見るとなかなかにゲームを楽しんでいるように思えた。
「そんでお前の方はどうなんだよ」
「あ、はい。あの胴上げは回避できたんですけど…」
ハグに捕まりました、という一歩の言葉に覆いかぶせるようにして青木が声をあげた。おっしゃあ! という雄たけびに一歩の顔が露骨に曇る。そんなにいいもんじゃないですよという感想に、木村が首を傾げた。
「野郎に抱かれるのは嫌だけどよ、鼻フックよりはマシだろ」
「相手、間柴さんですよ」
ひゅうっと冷気が入り込んだ。校舎内は窓も閉まっているはずなのに、二人の間を冷たい空気が流れていく。
間髪入れずに答えた一歩に木村の表情が強張る。対沢村戦を思い出したのか青木の顔色が一瞬で悪くなった。
「…そ、そいつは気の毒だったな」
「このまま時間がとまったらどうしようって思いました」
「…お疲れさん」
死神もかくやという間柴の腕の中でひたすら脅える一歩。なかなか想像し難いとりあわせを思い浮かべて、青木たちは同情的な眼差しを一歩にむけた。