Ti amo da impazzire! 前編
鷹村の部屋に電気はともっていない。一歩は出かける前に手渡された鍵をデニムのポケットから探し当てて、かじかんだ指で鍵穴に差し込んだ。くいっと右側へと鍵をたおしても何の手ごたえも感じられない。
一歩は、目をまるくして「あれ?」と訝しんだ。もう一度確かめるように鍵を寝かせても、やはり扉は最初から開いているようだった。かちゃかちゃという軽い音ばかりがドアノブの鍵穴から聞こえてくる。
鷹村が鍵をかけ忘れたのだろうか。
強盗が入ってきたところで盗るものも盗れるものもないと公言している鷹村は、初歩的な用心を怠ることがままあった。
実際に太田荘のように外観の古いアパートをわざわざ狙う空き巣もいないだろうし、うっかり入ったところで鷹村と鉢合わせればその場で身柄を確保されるのは言うまでもない。そもそもあの魔窟のような押入れは、物取りをも辟易とさせる破壊力を持っている。
一歩は一瞬あのごみなのかごみじゃないのか、その区別すらつけにくい雪崩に巻き込まれる空き巣を想像して苦笑いをうかべた。そういえば、あの中にはチャンピオンベルトも埋もれていたなと思い出す。
ベルト以外は本当にくだらないものの山なので、きっと物取りも押入れをあけてすぐに退散するだろう。
しかしそれとこれとはまったくの別問題なので、聞いていないとわかっていてもついつい戸締りに関して口をはさみたくもなった。
一歩は不満気にもう、とだけ呟いてドアを開いた。
太田荘のとびらは開閉の度に軋む。酸化した金具が互いにぶつかりあって少しずつ削れていく音を、一歩は好きになれなかった。
耳に痛い金属音に眉をよせ、一歩は身体を滑り込ませるようにしてそろりと玄関へ入った。
「鷹村さん? いるんですか?」
真っ暗な部屋の中をきょろきょろと見渡して、一歩が呟いた。頼りなげな声が壁にあたってちいさく反響した。一歩が目をこらして室内をうかがう。幾度となく訪れた部屋なのでおおよその位置ぐらいは見当がつくが、こう暗くてはよく見えない。反響した自分の声を聞く限りでは、仕切り戸はあいているようだった。
しばらくまっても返事はかえってこない。
鷹村の気配がない事に、一歩は正体のわからない胸騒ぎを覚えた。どうして胸のうちがざわざわと落ち着かないのか。わからないことが一歩にある種の恐怖を感じさせた。薄気味悪さに鳥肌がたつ。
背筋がぞくりとする。
部屋はしんと寒い。鷹村は、あの過酷な減量を思い出すのか冬でもストーブを使いたがらない。そのせいでここの室温は凍えるほどではないにしろ、真冬の野外とさほどかわりがなかった。
一歩の呼吸もうっすらと白く目視できそうだった。不安を振り払うように、もう一度口をひらく。
「…鷹村さん? いないん」
ですか、という言葉が一歩の唇からこぼれる寸前のことだった。
「おう、遅かったじゃねえか」
見えないところから鷹村の声がしたので、一歩は声もなく飛び上がりそうになった。すがたの見えない鷹村は、暗い部屋の奥に潜んでいるらしい。
「た、鷹村さん…! いるならいるって声かけてくださいよォ。びっくりするじゃないですか」
自分の心臓のあたりに思わず右手をおしあてて、情けない顔をした一歩は洋服越しに感じる鼓動をいさめようとした。しかし一歩の気持ちとはうらはらに、体の方はいたるところがしきりに脈打ってなかなかおさまりそうになかった。
猛獣が闇にまぎれるように、その爪と牙とが届く射程に獲物が入ることをただ静かに待ち伏せる。鷹村の、肉食獣を思わせる立ち振る舞いは一歩に冷や汗をかかせた。
心臓に悪いと一歩は思った。こと鷹村のような野性味のある男がそういった真似をすると妙な迫力があるせいか、部屋が檻のように感じられる。けだものと同じ檻に放り込まれた気分になるのだ。見えない鉄格子のせいで一歩の足が縫いとめられる。
ひらいた毛穴からどっと汗が噴出し、それがあっという間に冷えて体中を強張らせた。
正直生きた心地がしない。なまじっか鷹村という男をよく知っているばかりに、純粋な畏怖がまとわりついた。
生じた焦りに一歩は喉をふるわせた。何か話して、この空気をすこしでも変えたい。頭の奥からはやたらと警報が鳴り響いている。
心臓は依然として早鐘を打っていた。
「も、もう。電気ぐらいつけたらいいのに」
一歩が唇をとがらせるようにして言った。しかし鷹村からの返事はやはりなかった。
このまま玄関で立ち尽くしている訳にもいかず、一歩はおそるおそる靴を脱いだ。スニーカーの底とコンクリートがわずかな砂をまきこんで控えめな音を立てる。鷹村がじっとしているせいか、それがいやに一歩の耳に響いた。
右足を、そろりと踏み出した瞬間だった。
「なッ!」
鷹村によってすくわれた足のせいでバランスを崩した一歩が声をあげた。ぐぐっと引っ張られるような一瞬の浮遊感があったのは、他でもない鷹村が一歩の背負っていたリュックをつかみあげて引き抜いたからだった。
乱暴に放り出された一歩が床に転がる。がしゃんとけたたましい音がなったのは、フローリングの通路に空きビンが置かれていたからだった。一歩の腕に払われたそれらの二、三本がごろごろと転がって玄関の段差から滑り落ち、うすい扉へその空のはらをぶつけた。ガアンという音が立て続けに部屋に響いた。
衝撃とわずかな痛みにうめく一歩を、足で仰向けにさせた鷹村がしゃがみこむ。一歩の腹の上に腰をおろした鷹村は、そのまま一歩の首にぴたりと両手を触れさせた。
頚動脈の上にあるてのひらはあつい。けれど一歩の顔からは面白いほどに血の気がひいていった。
鷹村が無言でいる。自分の上に跨っている鷹村から、一歩は目をそらすことができなかった。
一歩の喉が大きく上下する。つばを飲み込む音ですら、彼の鼓膜を蝕んだ。
「なあオイ。テメェ出かけっときになんつったよ」
ゆっくりと吐き出すように切り出した鷹村に、一歩は面食らった。鷹村と言えば大声で豪快に喋る印象が強い。そんな鷹村が、ともすれば聞き取れないほど低く小さく唸っている。
鷹村と密な関係をもっている一歩ですら、はじめて耳にしたものだった。
態度とはちぐはぐな落ち着いた呼吸に、一歩の不安が煽られる。ごくりと動く喉仏は、依然として鷹村のてのひらによって覆われていた。
鷹村は身体を強張らせている一歩の様子をつぶさに観察しているようだった。
「えっと、なるべくはやく帰りますから…?」
一歩がようやく口をひらく。かすれた声に鷹村が切れ長の目をさらにつりあげた。
「おう。覚えてんのか。ンじゃあよォ、今何時だ?」
一歩ははっとして左手にはめてある腕時計を見た。目をこらさなければ文字盤が読み取れないので、しかめっ面で針の向きを確認する。
「…1時40分です」
「日付変わってンじゃねえか、このタコ」
親指を喉仏の下に食い込ませるかたちで鷹村が力をいれた。肌と肉の感触をたしかめるような手が、一歩を息苦しくさせる。隙間をぬうようにしてか細く呼吸を繰り返すほかなかった。
一歩は、伊達に誘われて飲みに行ってきた帰りだった。いつもどおり彼自身はアルコールを極力避けていたので、ほとんど酔っ払ってなどいない。しかし今の状況に頭がついていかなかった。
伊達と沖田で行う飲み会に参加しないかと言われたのは先週のことだった。そもそもその誘いを最初に受けたのは鷹村である。電話口で「おうオッサン、一歩も連れてっていいか」、「おうおう。大勢の方が楽しいからよお。構わねーぜ。何ならジム連中も呼んじまうか!」という伊達とのやりとりがあったことを一歩は知っている。
本当は一緒にでかける予定だったのだ。しかし鷹村は何を思ったのか出かける直前になっていつものように気まぐれをおこした。何度誘ってもがんとして譲らない鷹村が「てめえだけで行ってこいよ」と言うので、結局太田荘に鷹村を残して一歩はひとり、伊達や沖田の待つ宴会場へと出かけていったのだ。
一歩が部屋をでる時、鷹村の機嫌は平生と同じだった。とりたてて良くも悪くもない様子の鷹村に送り出された時のことを、一歩は思い出そうとした。ゆっくりと記憶をなぞって回想する。
おぼろげにうかんでくるのは玄関で交わした会話だった。
「気ィつけて帰ってこいよ。寄り道なんざしたらブン殴っかンな」
「寄り道なんてしませんって。鷹村さんじゃないんですから」
「ンだとォ! オレ様がわざわざ心配してやってるってーのに。まったくよォ、ンじゃあとりあえず連絡よこせ。迎えにいってやる」
「もー。やめてくださいってば! そんなことされたらまた伊達さんに笑われちゃうじゃないですかあ」
からかう鷹村に一歩は苦笑しながら言った。小声で不平をつぶやくも、鷹村にぐちぐち言ってんじゃねえよと一蹴されて結局いつものように口ごもる。
何だかんだとじゃれあいつつも、時間がおしてきていることを理由に、一歩は自分の頭をなでる鷹村の腕をそっとはずしてドアノブに手をかけた。その瞬間、
「一歩ォ! 12時前には帰ってこいよ」
たしか、鷹村はそう言っていたはずだ。
12時前。一歩は、わかってますよと返した覚えがあった。
途端に鮮明になっていく状況に、一歩の顔はますます真っ青になった。電話の一本もいれていなければ、言われた時間も大幅にすぎてしまっている。
「オレ様に言うことがあンなら言ってみろよ。…うまくおねだりできたら優しくしてやるぜ?」
一歩を組みしく鷹村の表情は冷めている。照明のない室内であってもギラギラとした瞳は鈍く光っていた。