Long*

第一話

 ふと、鴨川ジムに所属していた事を懐かしく感じた。かつて走っていた場所は今はもう使っていない。ロードワークついでに様子を見に行ってみようか。そう思いたった宮田は、普段のように黒いジャージに身を包んで川原ジムをあとにした。
 見慣れた景色は宮田が走っていた頃とまったく変わっていない。だというのにあまりに久しぶりのせいか、どこか知らない場所のようで、そう思う自分がくすぐったかった。感傷にひたるにはまだ早すぎる。
 うすい砂埃が風に遊ばれている。ちょうど宮田のくるぶしあたりまでの高さに舞い上がっていた。細かな砂利を踏みつけて鴨川ジムを目指す。青木や木村あたりが出迎えてくれれば立ち話もすぐに終わるだろうが、鷹村か幕之内でもいたら少々面倒だ。ちらりと窓から様子をうかがって、例の二人がいたら素通りしよう。宮田がそう決意した時、目の端に違和感を感じた。


 人通りのすくない味気ない道に人影がある。思わずそちらの方へ視線を投げかけて宮田はわずかに目を見開いた。あまり表情を変えないタイプではあるものの、ひくりと両眼がつりあがる。
 視線の先にいるのはつい先ほど宮田が厄介だと思った人物だった。河川敷のあたりで、一人ではない。背格好から男性ということだけはわかるが、宮田には見覚えがなかったのでジムの人間ではないだろう。宮田は軽快に地を蹴る足をとめた。このまま走り去ってしまえば元同門の知人と邪魔もなく話せるはずだったが、妙に頭に引っかかる何かがある。あまり気分の良いものではないそれに突き動かされて、宮田は息を殺して二人に近づいた。土手を外れて相手に気づかれないようにセメントでできた柱の影に身を潜める。明瞭とはいかないまでも十分会話が聞こえる距離だった。

 何でオレがこんなまねをしてるんだ、と思いつつ、半ば自棄になって冷たいコンクリートに背をあずける。


「せ、先輩が、何で、ここに?」
 一歩のか細い声は震えていた。宮田は、今にも泣き出しそうな声だと思った。
 一歩本人が以前言っていた事が思い出される。一歩は宮田に自分はいじめられていたと告白した事があった。多分そうじゃないかと宮田は思っていた。なんせ初対面が鷹村がボロ雑巾のようになっていた一歩を担いできた日なので想像がつく。そうでなくともあの性格だ。学校でいじめの標的にするにはまさにうってつけだろう。
 すると、彼が今対峙しているのはそういう関係者か。ちらりと見ただけだが、相手の男は上背はあるものの、特に何かをやっている気配などどこにもない普通の若者だった。
 うっかり自分から面倒ごとに足を突っ込んでしまったと、宮田は舌打ちしたい気分だった。おせっかいは木村の性分であって自分ではない。しかしこのままきびすを返す訳にもいかず、宮田は苛立つ自身を懸命におさえこんだ。

 ようは、タイミングを見て幕之内を連れ出せばいいだけだ。知り合いの男が出てくれば、相手もこの場は退くしかないだろうと宮田は考えた。




「うん。たまたま…ね。それにしても久しぶり」
 最後に見たときよりも痩せたのかな? ちょっと締まった? と男が続ける。育ちの良さそうな優等生染みた声が宮田の神経を逆撫でした。
 一歩は無言でいる。宮田のいる位置では二人がどんなふうに話し合っているのかわからない。
「あのね、話があるんだけど…ついてきてくれるかなあ。外だとね、ホラ。まずいしさ」
 男の口ぶりは穏やかだ。営業職についている人間のように卒がない。しかしニュアンスに人間性が垣間見れる。粗暴さとはまた違った強引な物言いに、そろそろ出て行った方がいいかと宮田が動く。背にした柱から肩ごしに顔をのぞかせる。宮田が二人の様子をうかがうのと同じタイミングで、男が一歩の手をひいた。
 流石に嫌だったら振り払うだろう。小柄な外見に騙されがちだが、幕之内一歩はプロボクサーだ。しかもハードパンチャーときている。足腰の頑強さもさることながら、その腕力も侮れない。階級違いのボクサー相手ならともかく、一般人相手に組み敷けるほど弱くはない。
 しかし一歩は宮田の予想を裏切って、よろよろと後をついていった。どちらかと言えば無理に引っ張られているというよりも自分から積極的に歩いているようにも見える。むしろゆったりとした足取りの男に対して焦っているかのような仕草をしていた。
 宮田は慌てて二人の行き先を目で追う。ここで引き上げても問題はないのだが、いかんせん後味が悪すぎる。他人のプライベートに立ち入るのは好きではないが、あれだけ異様な雰囲気の二人をそのままにして何か起きたとしたら面倒だ。なんだかんだと一歩を構っている鷹村あたりに絞られるかもしれない。
 そんなことよりも、ようやく見つけた相手がイレギュラーによってリングを去りでもしたら事だった。

 宮田一郎のライバルは幕之内一歩しかいないのだ。





 二人が連れ立って入っていったのは、どこにでもあるような喫茶店だった。路地裏に引っ込んでいるためか、薄暗く何とも言いがたい雰囲気がある。人気の少ない場所だと宮田は思った。結果的にあとをつけてきたことになるが、今更ためらってもいられない。妙な緊張感と罪悪感とに苛まれつつ宮田は歩いた。
 やや間をあけて宮田が入店する。店内は物静かだったのでどこに座っても耳を澄ませば会話は聞こえてきそうだったが、あえて一歩からも男からも死角になる右斜めのテーブル席に着席した。すうっとやってきた店員にホットコーヒーを注文して、息をひそめる。なんで俺がわざわざ、と思わなくもなかったが背筋に走った悪寒は無視できるような類ではなかった。先ほど盗み見た一歩の顔色を思うと、そうも言ってられなくなったのだ。
 よほど深刻なのだろう。色をなくした頬は青を通り越してもはや白くなっていた。そこまでの事情があるのなら逆にこうしてついてきてしまった事自体が迷惑なのかもしれないが、ほうっておけるほど宮田も薄情ではない。

 宮田の席にコーヒーが運ばれてくる頃に、ようやく二人は話はじめた。宮田は黙って神経をそちらにむける。







 胸糞悪い話に宮田は目を見開いた。ついでわななく唇を左手で覆い隠す。宮田の視線はすでに冷め切ったコーヒーにそそがれていた。半分以上残されたコーヒーに、宮田の輪郭がゆれる。
 要約すると、宮田の悪い予感は的中していた。終始胡散臭い喋り方をしていた男の方はやはり一歩を虐げていた人間のうちの一人だった。しかしそれに、よもや性的な暴力が伴っていたなどと、誰が想像するだろうか。
 男は一歩より年上らしかった。一歩が中学の時に集団で暴行を受けた際、その集団のリーダーだったらしい。男がどうして中学生の一歩を標的にしたのかも、またなぜ今頃彼の目の前に現れたのかも聞きとれなかったが、数少ない情報の中ではっきりしている事は、目を覆いたくなるような事実だ。


 一歩は背後から声をかけられると飛び跳ねるように大げさな身振りをする。まるで心臓病を患っているかのように、人の多い場所では左手を胸元にひきよせる癖があった。急に声をかけられると泣きそうな表情をつくる。
 懐っこい顔立ちと、宮田を見つけて嬉しそうに駆け寄る姿ばかりが思い出されるが、宮田からおこしたアクションにはたいていそういった反応が返ってきていた。気にはなっていたが、そういう性質なのだろうと思っていた。


 それが、トラウマというかたちで事実を裏付けている。宮田は耳を疑ったが、一歩はやめて、言わないでとしか言わなかった。反論も激昂もせず、男の出方に臆していたのだ。状況判断として疑う余地はない。


 当事者でもないというのに、宮田の心臓はけたたましかった。とにかく、一歩を一人にしては危険なのではないかという結論が頭の中を占拠する。しかし同じジムでもなければ個人的に交流があるような近しい間柄でもない。いっそ鷹村か木村あたりに相談として持ちかけた方がいいのかもしれない。
 こんなケースは宮田一人では手に余る。
 けれどこれはあくまでも一歩の個人的なトラブルだ。それも簡単に他人が踏み込んではならないような類のものである。本人が知らぬ間に話が大きくなるのも、気分が悪い。何より一歩も男だ。誰よりも何よりも宮田に知られたくはないに違いない。
 八方塞がりの状態で宮田に出来る事といえば、聞かなかったふりをする事と、なるべく彼を一人にしないために傍にいることぐらいだ。いつでも連絡がとれるように、注意を払わなければ危うい。



 冷えたコーヒーを飲む気もしなかったので、宮田は席をたった。店内にはもう一歩の姿も男の気配もない。かすかに震える指先でレシートをつまむと、宮田は足早にレジへと進んだ。



 一刻もはやく、この場から逃げ出したかったのだ。


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掲載日2010年11月05日