第二話
押し殺した自分の悲鳴で目が覚めるのは久しぶりだった。ボクシングをはじめてからというもの、とんと縁がなかったのでつい忘れていたのだ。悪夢から逃れるように飛び起きるのは、いつまでたっても慣れやしない。
見慣れた天上を見つめて一歩は荒い息をじょじょにゆるめ、呼吸をあさくしていく。じっとりと汗で湿った額を拭う手は震えていた。目が覚めた今でさえ、ひょっとすると薄暗い部屋の片隅から、誰とも知れない手がのばされるのではないだろうかという恐怖に身体が強張っている。ここは安全、大丈夫、自分の家だと言葉に出して自身に言いきかせても、心臓は狂ったように早鐘を打ち続けていた。
中学時代の忌まわしい記憶が脳裏によぎる。押さえつけられた腕はどんなに足掻いてもびくともしなかった。自分がおかれた状況をのみ込めないでいる一歩に容赦なくふるわれた男の手のひらは、まるで女をぶつように一歩の頬をはった。渾身の一撃ではなく対象者を従順にさせるための暴力には、たいした威力はない。しかし反復するように何度も何度も力の入っていない平手打ちが往復した。ただ馬乗りになって立場をわからせるそれが、薄気味悪かった事を思い出す。彼らは躾だと言っていた。
ところどころ場面のとんでいる再生は、ダビングしたビデオのようにデキが悪かった。それはそのまま臨場感をともなって一歩の心を当時に追い込んでいく。
ぐったりした上半身を起き上がらせて、みっともなくがたがたとゆれる膝を胴にひきよせる。立膝をそのまま両腕できつく抱き、身体をちいさくまるめた。
部屋が、広すぎる。
しばらく息をひそめるような、獣のような呼吸をくりかえしたおかげか、ずいぶん楽になってきた。ようやく落ち着いてきた身体に一息ついて、一歩は時計を見やった。
最近にしては珍しく朝釣りの客がいない。昨晩母親にもしっかり確認したが、今日は釣り船を出すこともなさそうなので比較的業務も楽だと言っていたのを思い出す。つねに早朝に起きる習慣のある一歩にしては、時計の針が示している8という数字はけしてはやいものではない。ジムに顔を出すのも午後でかまわないので、これが平生なれば「今日はのんびりしよう」とふたたび布団にくるまるところだったが、生憎そんな気分にはなれないでいた。
しきりなおしとばかりに立ち上がって布団を片付ける。寝汗をびっしょりとかいてしまったので、シーツだけは引っぺがし、軽くよすみをあわせてたたんでおく。嫌な汗を吸い取っただろう上着も着替えたい。ついでにシャワーも浴びたいところだったが、元々目が覚めたら日課に出かける予定だった。
ロードワークですっきりしてからにしよう。次から次へと何かを考えていなければ悪夢の続きに囚われてしまいそうで、一歩は手早く外出の準備を整えた。母親に心配をかけまいと、足音に気をつけて玄関先にまで歩いていく。一刻もはやく疲れてしまいたかった。
履きなれた運動靴を引っ掛けて、普段よりもいささか早いペースでいつもの土手を走る。鴨川ジムに近い堤防沿いは、一歩にとって馴染み深いコースでもあった。
自主的なトレーニングの時は愛犬を伴って走る事も少なくなかったが、今日は家を出る際に愛らしいそぶりで連れて行って欲しいと訴える彼に構っている余裕はなかった。一刻も早く逃れたい一心であったので、いつものように頭を撫でるのもそこそこにして走り出してしまった。
悪いなと思うだけの余裕が出てきたので、一歩は落ち着いたらゆっくり遊んであげようと帰宅後の予定を決める。
がたがたのリズムで走り続けたツケが疲労感とともに脹脛を襲いつつあったので、一歩は高架下に降りた。太陽を遮る大きな橋の影にはいると、ひんやりとした風が火照った体に心地いい。トレーナーの上には何もはおっていなかったため、こうして立ち止まっているとやや肌寒いかもしれない。
ワンポを連れている時はあのむくむくとした真っ白い体毛に顔をうずめて抱きしめる、という暖のとり方があったが、折悪しくもワンポは幕之内宅で留守番の任についている。おざなりなスキンシップに不平もこぼさず尾を振った愛犬を思うと、一歩はいたたまれなかった。
もうずいぶんと前のことをいつまでも気に病んでいる自分が、ひどく惨めだった。
「幕之内くん? 幕之内くんだよね」
軽く足慣らしをしてコースに戻ろうとした一歩の後ろから、ふいに親しげな声がかけられた。
自分の視界にとらえていない範囲から声をかけられる事に一歩は恐怖を覚えている。どくん、と脈打つ心音は一歩の手足を痺れさせた。錆ついた機械のようにいう事をきかない身体で振り返って驚愕する。こぼれ落ちるのではないかというほど見開かれたまあるい瞳は、忘れたくとも忘れられない男をとらえていた。
示し合わせたかのように目の前に現れた男は、目に見えて動揺していることがありありとわかる一歩の反応に何も言わない。
一歩は、まるで強烈なブローをもらった時のように、身体がきしんで胸が痛かった。試合と違うのは胸の痛む場所だけだった。うまく呼吸ができない苦しさに眉根をよせた一歩は、男から目をそらせないでいる。
「やっぱりそうだ。さっきそこで走ってる君をみかけてね。懐かしくてつい駆け寄っちゃったよ」
男は人好きする表情を浮かべ、黙ったままの一歩に愛想よく話しかけてくる。生真面目そうに一番上のボタンまでとめられているYシャツと、皺一つないスーツの上下が与えるのは好印象しかない。しかし一歩は顔を強張らせた。
男の事を、一歩は良く知っていた。といってもそれは同級生としてだとか、友達としてではない。ほがらかな表情の裏側をまざまざと見せ付けられた事があるからだ。穏やかそうでいて、その実決して目は笑わない。
この男は、品のある顔に不似合いな事を、ピアニストのように繊細な指でやってのける。男を、一歩を、想像もしないような方法で組み敷いたのも、細身のこの男なのだ。
「せ、先輩が、何で、ここに?」
これ以上の接近を許したくない一歩は震える膝を叱咤して後退った。肝心なときに役立たない両足に泣きたくなる。悲鳴をあげたくなるのをグッとこらえて、一歩は唇を噛んだ。ぐわんぐわんと鳴り響く警戒音で側頭部に鈍い痛みが走る。神経は過敏に反応しているというのに、一歩の身体は思ったように動かない。自分のものではないかのように両腕が重い。吐き気がとまらない。口を開いても酸素が取り込めないので、唇が乾くだけだった。
適度に人の手が入れられているらしい芝は短く刈られている。群生しているそれらは朝露に濡れていると人の足をとることがある。今まで思いもしなかったが、一歩の靴裏はそれらをかみ損ねてしまいそうだった。
男は一歩の疑問を曖昧に受け流し、旧知の間柄とでもいうように振舞った。久しぶり、元気だったかな、少し痩せた? などという他愛もない事を自然に舌にのせるので、ほんの一瞬だけ一歩はこの男と自分との関係を錯覚しそうになる。しかし男からの問いかけには一切応じない姿勢をつらぬいた。
無言の抵抗に男の口角がひきあげられる。
「あのね、話があるんだけど…ついてきてくれるかなあ。外だとね、ホラ。まずいしさ」
ゆっくりと、言い聞かせるような口調で男は話す。ぐずる幼子を諭すような、聞き分けのない子供を躾けるような言葉だった。言外についてこなかった場合どうなるのかを含ませた言い方に、一歩は歯を食いしばった。
そうでもしなければまともに立っていられなかったのと、単に歯の根ががちがちと鳴ることを嫌っての行動だったのだが、男はそれが気に障ったのか、先ほどよりも笑みを深くした。
一歩は男の怒りの発露がどういったものなのかも知っている。怒鳴りちらすなり殴るなりしてくれるのならばそれなりに耐える事もやりすごす事もできるのだが、男の場合は機嫌を損ねた時ほどそうした単純な報復ではおさまらず陰湿なやり口になるため、対峙している際はいついかなる時も気が休まらなかった。
俯いて自分のつま先を見つめていると、男が一歩の手首をつかんで引っ張った。急にぐいっとひかれたため前のめりになるものの、反射的にバランスをとる事ができたので躓く事はなかった。
男の指の腹が軽く一歩の肌に食い込んだ。その気になれば振り払えるだけの力の差があるというのに、一歩には男の手を払いのける術がなかった。この男には逆らってはならないと、本能が訴える。
一歩は男の機嫌を損ねないよう、自分からついていくしかなかった。はじめから選択肢など用意されていなかったというのに、この男はいつも一歩に選ばせようとする。そして自分が誘導したくせに一歩のせいにするのだ。
一歩は二度ほど瞬きした。ついで自分の手首に触れている男の背中を追いかける。一歩には、自分がけっして逃げ出せない事がわかっていた。
今朝の夢の続きが待ち受けている事に顔を背けて、ついていくしかなかったのだ。