第四話
この頃一歩の様子がおかしい。相変わらずジムではえげつない音でサンドバッグを叩いているし、ロードワークも毎日少しずつ増やしている。身体の方はどちらかといえば好調に見える。
現に鴨川会長の一喝がない事からも一歩の体調が原因ではないと見てとれた。
黙々とメニューをこなす後姿は今日も練習の虫だ。試合間近というわけでもないというのに、鬼気迫る勢いで没頭している。そうまで真剣になられると声すらかけにくい。それは幕之内一歩という青年の生来の気質であるため、今にはじまった事ではないのだがなぜだか木村は一歩から目がはなせないでいた。
虫の知らせとでもいうのか、喉に何かがひっかかっているような、憂いが消えない。
木村はインターバルに入ってすぐに、スポーツタオルを頭にひっかけるようにしてベンチに座った。軽く深呼吸して「オレも若くないねえ」などと呟いてみる。滴り落ちる汗を拭う気力もないといった木村の隣に、ほどなくして青木が腰掛けた。体を投げ出すような乱暴な座り方に、あまり丈夫そうに見えないベンチが軋む。
「おいおい、オレまでオッサン扱いされちまうだろォ」
「おー、オレがオッサンならお前もだろーな。見た目がすでにお兄さんってガラじゃねえしよ」
木村と違って外見が明らかにチンピラあがりの青木は、実のところ意外にも己の風采を気にしている面がある。トミ子という恋人がいるのだから気にしなければいいと木村は思うものの、そう助言した事は一度もない。気にしているといっても深刻なものでもないのだ。自分でネタにできるぐらいには。
「しっかし、アレ。すげえなあ」
青木が手にしたドリンクで水分補給しつつ、感嘆した。視線の先をたどると、木村が気にかけている後輩がいた。国内屈指のハードパンチャーの名に恥じない破壊力でサンドバッグも縦に揺らされている。腹の底に響くような重低音に、いつものことながら青木も木村も感心した。
「腕力だけだったら鷹村さんとはるからな」
「おお。アイツの階級がフェザーで良かったぜ」
だな、と軽口を叩きつつ、話題は自然な流れで青木とトミ子の惚気になった。毎度のことながら暑苦しい顔で語られると鬱陶しいものを感じるが、木村は青木の話を適当に聞き流した。相槌を打ちつつ、その視線も意識も形振り構わず拳をふるう一歩に集中する。
元々一歩はスキンシップが得意なタイプではない。引っ込み思案で大人しい彼にはバンテージやグローブよりも図書館だとかの方が似合うだろう。それこそ殴り合いなんて無縁そうな青年だ。学校での成績も良かったようだし、何より鷹村に拾われてさえいなければ、家業を継ぐなり大学へ進学するなりしていたのではなかろうかと思わせる。およそ猛々しさを感じさせない一歩は、外見からも性格からも体育会系ではないことがわかる。
いじめられていた、という事もある。
木村は、むしろ一歩はそういった独特のノリが苦手なのではないかと思っていた。何気なく呼び止める際にも、彼は体を強張らせていた。相手の出方を伺うような卑屈な表情ではなく、もっと別の何かに脅えるような仕草を見せた。そのわずかな一面が、彼が標的にされやすい原因になっているのは間違いない。
どちらかといえばああした露骨な落ち着きのなさは男のものではないからだ。
木村は過去の自分を鑑みるに、血気盛んで無駄に腕力のある奴ほど一歩のような人間を嗅ぎ分けるという事を知っていた。今でこそずいぶんと落ち着いている木村ではあるが、そんな自分ですら時折あの態度には苛立ちを覚える。初対面でなら分からなくもないのだが、もう慣れてもいい頃合なんじゃないだろうかと思ってしまうのだ。
しかしそれを顔に出さないだけ、木村は物分りがいい。青木は気づいてすらいないのでカウントしないが、鷹村は違う。それこそ木村が幕之内一歩という青年の特徴を知る前から、鷹村は気がついていたのだろう。一歩からは見えない場所で、よく怪訝な顔をしていた。
表向き、一歩は鷹村や木村達に懐いている。警戒心のかけらもないような笑みを浮かべて駆け寄ってくる姿はたしかに犬のようで、慕われて気分が悪くなる筈もなかった。からかうとすぐに困ったような顔をする後輩が、かわいくない筈もない。したがって一歩もジムの面子に可愛がられているのだが、どうも彼はかまわれるという事に慣れていなかった。
特に一歩本人が声をかけられるとは思っていなかった時に、それが顕著に表面化する。誰という限定もなく、そういうときの一歩はかすかに肩口を動かして、内気な女のように反応を返した。
鷹村は、そろそろ限界なんじゃないだろうかと木村は思っていた。鷹村の態度は目に見えて苛立ちを帯びてきていた。
この頃の一歩の変化も、そこに起因するのではないかと木村は考えていた。しかし注意深く観察してみると、それが原因ではないような気もしてきたのだ。
鷹村の傍若無人ぶりも気難しさも昔からであるし、あの鈍い一歩が鷹村の憂鬱を敏感に察したとはいい難い。そもそも鷹村にだけだというのならわかるのだが、ここ四日ほどこれまで以上に一歩は木村達にまで妙に距離を置きたがっている。
釈然としない想像に一旦のケリをつけて、木村は立ち上がった。
「うっし。そろそろやんぞ」
「おー。オレもトミ子のために頑張るぜ!」
はいはい頑張ってくれよ、と投げやりな返事を返す木村を背に、青木は右腕をぶんと振り回して篠田のところへ歩いていった。
面倒見のいいお兄さんは大変だねえ、と他人事のように呟いた木村は、そろそろ一歩から悩み相談でもさせようかと思った。いいかげん、この鬱陶しい空気をかえなければならない。自分にとっても鷹村にとっても、もちろん一歩にとっても今のままよりはずっとましになる。
なるべくはやく解決して、蔓延しつつある不穏な気配と真綿で首を絞めるような閉塞感をなくしたかった。
高を括って決断した事に自分が後悔するのは時間の問題だということを、このときの木村はまだ知る由もなかった。
一歩くんならシャワー浴びてるんじゃないかなあ、と教えてくれた八木に礼を言って、木村は手早く脱衣所兼ロッカーで衣服を脱いだ。汗ばんでいるせいか肌にまとわりついてくるシャツの感触に眉根をよせつつ、簡単にまるめてビニール製のバッグにつめる。小学生が水着を持ち運ぶのに使っていそうなちゃちなバッグを、少しコンパクトにしたそれは、意外にも使い勝手がいいので木村本人は気に入っていた。ついでとばかりに先ほどまで使用していたスポーツタオルもつっこんで、木村はロッカーの戸を閉めた。
ロッカー室付近には木村のほかにまだ誰の姿もない。
それもそのはずで、八木が把握しているジムメートの今日の予定では、四時を過ぎたあたりで練習あがりになっているのは木村と一歩ぐらいだからだ。木村については前々からのスケジュールにそっての息抜きのような早引きだが、一歩の方は最近の根を詰めた練習をオーバーワーク気味だと判断した鴨川と八木の決定らしい。とくに八木からは「ひょっとしたら何か思うところがあるのかもしれないから、相談とかのってあげたらどうかな」とそれとなく言われている。元々そのつもりであった木村が断る理由もなかった。
快くひき受けたかたちで木村はシャワールームに足を運んだ。
スライドタイプのドアががらがらとレールを転がる。時折躓くようにすべりが悪いのは愛嬌だった。
鴨川ジムのシャワールームは簡素なつくりのため、衝立でひとつひとつ区切られてはいない。さっと汗を流すだけのものなので、少し錆付いた備え付けのシャワーヘッドは固定されていた。少々筋肉質な男がひしめきあって長々と使いたがるものでもない。当然人数が多い時は芋洗い状態になり、烏もかくやの行水で終える者も少なくなかった。
それでもプロである木村達はいくらか優遇されているのか、気分にムラのある鷹村にたいして練習生たちが気を使うのか、混雑時に使用するはめになったことはライセンスを持ってからは一度もなかった。しかし騒々しい鷹村のせいで静かに汗を流した経験もない。
人気のないシャワールームでなら話も切り出しやすいに違いない。何よりうやむやにして逃げるには不都合な場所である。肝心な事になるとだんまりを決め込む一歩から聞き出すにはうってつけと言えた。
足を踏み入れつつ、ちょっといいかと声をかけようとした木村が瞠目した。大きく見張った木村の両眼には一歩がうつっていた。
一歩は、一番奥の壁際によりかかるようにしてしゃがみこんでいた。湯気がたちこめているような場所に不似合いなほど血の気のない顔をしている。
「お、おいッ! 一歩おまえ」
大丈夫か、という言葉は木村の口から発せられることはなかった。慌てて駆け寄った木村が一歩の肩に手をのばした瞬間、指先が触れる前に一歩がその手を叩き落としたからだった。
自分のしでかした事にはっとした一歩が、泣き出しそうな顔で唇をふるわせた。
「あ、その、ごめんなさい…!」
「いや…気にしてねえから」
一歩の双眸は胡乱な揺らぎを見せていた。爪が食い込むほど自身の肩を抱いて、身をすくめている一歩の切羽詰った表情に木村は言い知れない不安を覚えた。あきらかに様子がおかしい。
木村は、目に見えてただごとではない反応を示す一歩にとまどった。誤解を招きそうで頭が痛かったが、とにかく一歩を落ち着かせないことには何もはじまらない。現状を打開するために痛む頭を抱えて考える。
なんとなく青白い横顔を見続けるのは忍びなかったので、木村はすうっと視線を下げた。タイル張りの床でシャワーが飛沫をあげていた。座り込んでいる一歩のかかとや脹脛にぶつかっては、排水溝へと流れていく。視線を落ち着かせる場所がない木村は目を泳がせた。焦るばかりで何も思いつかない。
木村の気持ちだけが、急く。
ふいに、一歩が腰にまいたタオルが水分をすって重くなったのか、結び目がゆるみはじめた。左目の片隅でそれをとらえた木村が、つられるようにして一歩へ視線を戻した。
まるで照準があるかのように、木村の視軸はある一点をとらえた。タオルの結び目がゆるんでずりさがった箇所に、ひどい痣があった。ところどころ生々しく青黒いそれは、歯型のようにも鬱血のようにも見てとれる。上前腸骨棘周辺に集中した皮下出血の多さは尋常ではなかった。
木村は、自分の顔が強張るのを感じた。おそらく、タオルで隠れている場所にまで斑紋は広がっている。
「おま、これどうしたんだよ!?」
血相をかえた木村が膝をついた。一歩の状態もわすれて、座り込む彼の腕をぐっとつかまえ引き寄せた。がなる木村と目があった瞬間に、一歩の黒目がちな双眼が見開かれた。零れ落ちそうなほどあけられた目には、木村がうつっていなかった。
「……ッ!」
まずい、と思った時には遅かった。恐慌した一歩が、なりふり構わず木村の手から逃れようと暴れだした。
体格差と体勢のおかげで木村に分があるものの、ただでさえ一歩の拳は凶器だ。狼狽してリミットの外れた腕力で抵抗されてはたまらなかった。
木村はぐっと奥歯を噛みしめて体重ごと一歩を取り押さえた。壁と木村に挟まれた一歩は、木村の腕を掻き毟るように爪をたて、下がれもしないというのにタイルを蹴った。
ひらいた足の間に身体を滑り込ませて身動きを封じながら、言葉になりそこなった悲鳴をあげる一歩に、木村は何度も名前を呼んで呼びかけた。
人が来る前に正気に戻さなければならない。木村は必死で一歩を宥めた。