Long*

第一話

 シャワーをあびることを宮田に促された一歩は、かすかに顎をひいて頷いた。うつむいたままバスルームへと足を踏み入れる後姿に、宮田が声をかける。
「着替えとバスタオルはここにおいとくから、髪は乾かしてこいよ」
 一歩の返事は期待していなかったので、宮田はそのままスライド式の扉を閉めてやった。一歩の表情を見ることができなかったので判断がし難かったが、背中越しにうかがい見たところでは取り乱している様子は見られなかった。
 宮田はそのまま脱衣所と洗面所をかねている部屋からリビングへと向かう。
 机の上には宮田の上着が放り出してあった。帰宅してすぐに捨てるように放った学生服の内側には、血液がべっとりとはりついている。確かめるまでもなく捨てるしかないとわかる有様だった。手に取った瞬間鼻腔をさすような異臭が宮田を襲う。宮田は顔をしかめながら詰襟を適当にまるめてビニール袋へ突っ込んだ。手早く袋を二重にかぶせてもこびりつくはらわたの臭いが気になった。
 宮田の部屋は、当分血なまぐさい臭いがとれないかもしれない。ため息をついた宮田の耳に、シャワーをあびる音が聞こえてきた。
 レザーソファーの足に背を預けるようにして、宮田は床に直接腰をおろした。


 血だまりの中にへたりこむ一歩を見つけたときに、宮田は心臓がとまるかと思った。
 数年前に倒産した工場は、取り壊しの工事も中途半端のままで半壊の状態で野ざらしにされている。老朽化した外観のいたるところにカラースプレーでの落書きが見られることから、現在では不良のたまり場として近隣の住民たちから疎まれていた。
 工場の敷地内にある倉庫のひとつで、宮田が一歩を見つけたのは偶然に近い。
 アルバイトを終えて、コンビニの制服を脱いでいるときだった。胸ポケットにいれていた携帯の存在をすっかり忘れて、ロッカールームの床に落としてしまったのは。
 ガシャンという音でそれに気がついた宮田が、足元に転がっている携帯を拾い上げる。折りたたみ式の携帯は、落下の拍子に開いてしまっていた。
 働いている最中、宮田は携帯をサイレントに設定している。画面には、二件の着信記録と一件の留守電メッセージを知らせる表示が出ていた。胸騒ぎに後押しされて、宮田はボタンをおして留守電をきいた。
「おもしれぇもん見せてやっからよ、俺らのたまり場にこいよ。待ってるぜ」
 それだけを録音した相手の顔を宮田は知らなかった。しかし酒やけした声には聞き覚えがある。人を見下した男の声のほかには、鼻持ちならない笑い声がはいっていた。留守電を残した男を含めた複数人で何かたくらんでいるらしい。ピーッという電子音で再生が終わったあと、まず最初に宮田が思い出した人物は幼馴染だった。

 宮田一郎と幕之内一歩は、互いが幼稚園に通っていた頃からの付き合いだった。ちいさな頃からよく一緒に遊んでいた友達だ。宮田の両親が離婚して、幼い宮田を引き取った父親が酒を飲んで暴れるようになったときも、他の友達が疎遠になっていった中で一歩だけは宮田のそばにいてくれた。不品行な行いばかりをくりかえす宮田を見捨てずにいたのも一歩だけだった。
 決して口にすることはないが、宮田は一歩のことを親友だと思っている。
 気が優しくて穏やかな一歩は腕に覚えもないくせに変なところで頑固な気質を持っているので、品のない連中ばかりとつるんでいた宮田を心配して、不良が集まりそうなたまり場をうろうろすることが多かった。詰襟のボタンを一番上までとめているような、真面目な一歩がそんなところに出入りしていれば当然悪目立ちする。
 自分たちとは毛色の違う人種をカモとしか思わないやからにとって、一歩は標的にしやすかっただろう。宮田が知ったのはずいぶんと後のことだが、一歩は暴力による嫌がらせも受けていたようだった。

 5月に入ってすぐにおきた、全国的なニュースにもなった殺人事件の被害者は、たしか一歩を食いものにしていたグループではなかっただろうか。宮田の脳裏に、憎たらしい男の顔が思い浮かんだ。
 自分のオンナが宮田に懸想したことを理由に、宮田とつながりのある一歩を嬲った男だ。ニュースで死んだと知ったとき、宮田はざまあみやがれとしか思わなかった。しかし、それなりに名を知られている暴走族の総長だった彼を、中には慕っていた人間もいるだろう。敵対していた宮田を逆恨みするヤツがでてきたとしてもおかしくはない。

 彼らのたまり場となると、廃墟になって久しい工場跡地が一番人目につかなかった。薄気味悪い外観と、ろくでもない子供が群れをなしている場所に好きこのんで近づくような大人はいないからだ。大雑把な検討をつけて宮田は急いで着替えると、挨拶もそこそこにコンビニを飛び出した。
 工場の敷地内は広く、人の手がはいっていないせいですさんでいた。連中がたむろしている倉庫や工場内の一室まで予測できるわけもない宮田は、男達と一歩をしらみつぶしに探すしか術がなかった。そもそもこの工場内に確実にいるという保障はどこにもない。敷地を囲むブロック塀に手をついて、息を整える宮田の表情は強張ったままだ。
 一歩が殴られるだけならまだましな方だ。万が一取り返しのつかないような怪我を負ったらと思うと、肌ににじんだ汗も冷たくなる。頬を伝うそれを乱暴に拭って、八方塞の現状に宮田が舌打ちをした瞬間、女の金切り声にも似た悲鳴があがった。鼓膜をつんざくようなそれは半壊の工場からではなく、倉庫の方から聞こえたものだった。
 錠で閉鎖された門をよじ登り、身軽い動作で敷地内へと飛び降りた宮田は地を蹴った。




「宮田くん、シャワーあがったよ」
 一歩の声にはっとした宮田は、顔をあげた。腕をくんで俯いたまま考えに耽っていたせいだろうか。一歩がフローリングの通路を歩く音にすら気がつかなかった。
「サイズ、ちょっとでかかったみたいだな」
「うん。でもすこし長いぐらいだから」
 大丈夫だよと続けた一歩が身につけているのは、宮田が中学の頃に着ていた黒いスウェットの上下だ。すこし腕をまくるようにしている一歩の右の手首には、うっすらと手形の痕が残っていた。眉をよせた宮田が遠慮なくそれを注視するので、一歩は左手で隠すようにして宮田の視線を避ける。
「いつまで突っ立ってんだよ」
 のばしていた両足を折りたたんで宮田は胡坐をかいた。座れと促された一歩は、宮田の正面に腰を落ち着けた。楽にしろよと言っても一歩は正座を崩さず、身体をちいさくまるめるようにしていた。


「…何もされなかったのか」
 宮田がぽつりと呟いた。右手首の手形を隠すように左手をそえている一歩は、「突き飛ばされたぐらいだから」と答えた。重苦しい会話に宮田は息が詰まりそうになった。
「いったい何があったんだよ」
 宮田の質問に一歩の肩口が揺れた。大げさにびくつく一歩を見つめる宮田の双眸がすうっと細くなる。
「人間が、できるわけないだろ。あんなの…」
 独り言のような言葉だった。
 苛立ちと焦りで夢中になって駆けずり回った宮田が、最後に足を踏み入れた倉庫での光景は目を疑うものだった。
 人の死体など、宮田は一度も見た事がない。しかし倉庫の床に転がっていたものは、一目でそうだとわかるものだった。切断された肘から下の前腕や足首に、横たわる身体から皮一枚でどうにかつながっている頭部。宮田のすぐそばで仰向けになっていた男は、はらわたをひきずり出されていた。
 目をむいたまま絶命している遺体の表情を思い出して、宮田は咄嗟に口元をおさえた。しっかりと記憶されてしまった散乱した肉片と臓物の悪臭に胃の中がせりあがる。
 宮田があの場で強烈な吐き気をおさえることができたのは、呆然として目の焦点すらあっていない一歩を見つけたからだ。いつ千切れて落ちるかわからないクレーンのそばでへたり込んでいる一歩の素肌には、おびただしい量の血液が付着していた。扉付近にいる宮田からは、頭を垂れるようにして座り込む一歩の生死は判断がつかなかった。
 心臓に氷水でも流れているかのようにすうっと冷えていった宮田の胸は、想像すらしなかった恐怖にはりさけそうになった。床にしたたる血液に足を滑らせながら駆け寄って、一歩の息があることを確認したとき、ようやく宮田は安堵したのだ。
 口元へやった手をおろしてもう一度腕をくむ。骨が軋むほど自分の二の腕を握り締めて、宮田は一歩が何か話すのを待った。


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掲載日2011年01月09日