Short*

Non riesco a respirare bene. 前編

 全開の窓から入る生ぬるい風が鷹村と一歩の髪をおなじように一撫でして、そのまま玄関の方へと流れていく。夏には似合わぬ陰々とした空気が、うっすらと汗をかいている肌を粟立たせた。
 それが過ぎ去るたびに、鷹村の神経は一点に研ぎ澄まされていく。細かな電流が走るようなそれは、鷹村自身にも覚えのある高ぶりだった。試合の高揚感に似た衝動は、自分に向かって足を広げる女を前にしたときにも似ている。
 涼月とは名ばかりの七月のあつさはうだるようで、エアコンのない太田壮の住民からはたびたび熱射病で倒れる人間が出ていた。それが毎年起こるというにも関わらず、管理会社はたいして策を講じていない。
 鷹村は、この得体の知れないあつさを、すべてそれのせいにしてしまいたかった。しかし直に触れている左手が感じ取る、一歩の熱やひそやかな息遣いは言い訳の仕様がなかった。
 興奮している。それはどちらかといえば、鷹村の方がつよいぐらいだったので、試合で横っ面を思いっきり殴られるよりも衝撃的だった。
 抗いがたい熱に、一歩もうかされているのだろう。それが鷹村の指先にも伝染し、彼の頭を少しずつおかしくしていく。25年間生きてきた鷹村の価値観はもののみごとに揺さぶられた。

 ほんの数秒あわされた、自分をとらえていない両の眼にひきずり込まれていく。




 夏本番を前にして、連日30度に手が届くほどのあつさだった。毎年初夏を歓迎する鷹村も、ここ数日続いた猛暑には顔をしかめている。
 うんざりとしながら窓の外に視線をやると、ビルと民家の間から朱色の落陽がゆらゆらと揺れながら消え入ろうとしているのが目に入った。

 じーわじーわジジジジジと蝉がないている。

 扇風機は強にスイッチが入っていたが、送られてくる風は何もないよりはましという程度だった。
 よれたランニングシャツの腹をまくって額の汗を拭うが、すでにぐっしょりとしめっているそれではたいした効果もなく、鷹村の機嫌は悪くなるばかりだった。
 舌を打ち鳴らして右手で目元や頬を乱暴にはらう。指先やてのひらには集められた汗が玉になっていた。そのまま面倒そうにトランクスの端になすりつける。らしくない緩慢な動作だ。

 鴨川会長が見ていれば活を入れるに違いないだらしなさだった。


 試合前の減量ならばいざ知らず、たまの休息で体力を削られるのは我慢ならないが、苛立ちにまかせてぎゃんぎゃんと吠え立てるのも馬鹿らしい。
 長い手足を投げ出して、鷹村はぐったりとしていた。今日は早朝もたいして涼しくなかったせいか、日課のロードワークから帰ってからも何をする気も起こらなかった。
 さすがに脱水症状には気をつけてまめに水分補給はしているが、朝食と昼食も食べる気がしなかった。
 日頃大食漢なところのある鷹村だが、さしもの世界王者も日本の夏には抗えないとみえて、すっかりばて気味だった。寝込みはしないが、完全に夏負けしている。
 窓枠のとなりで背をあずけながらじいっと体力の回復を待った。
 少しでも身じろぐと壁にはりついた衣服がねっとりとはがれてまとわりつくので気持ちが悪いのだ。

「っとにあっちィなちきしょう…」

 鷹村の口から恨み言がこぼれ出る。



 古い建築のアパートには風呂はおろかシャワーすらついていないので、汗を流してさっぱりすることもできない。
 鷹村は、エアコンのある青木のところにでも転がり込むかとも考えたが、半同棲中の彼らのことだ。このくそ暑苦しい日でも厭きもせずにいちゃいちゃいちゃいちゃしてんだろうなと思い直して踏みとどまった。
 普段の調子であれば蹴りのひとつも見舞ってやるところだが、生憎と鷹村自身が辟易としている今、青木とトミ子のカップルを相手にする気力はわいてこなかった。


 汗でほつれた前髪が目にかかる。それを鬱陶しそうにかきあげて、くしゃくしゃとまとめあげる。
 鷹村がため息まじりに部屋を見渡すと、電気をつけていないせいか、先ほどよりもずっと薄暗くなってきていた。
 片目を眇めて、放り出されて転がったままの時計を見やると、文字盤の針は七時をまわっていた。

 今頃木村は家族水入らずを満喫している頃だろうか。たしか先日、町内会の抽選で二泊三日の温泉旅行が当たったという話しを小耳に挟んだ気がする。
 そういえばちょうどそのときに、当日に祝えないからと言って連名のプレゼントとやらを受け取ったのだ。包装で包まれていたのはリストバンドと、鷹村が愛用しているメーカーのランニングウェア。それから吸水性のいいスポーツタオルが三点同梱されていた。


 プロボクサーといっても上位ランカーでさえ思うようには稼げない。少ない持ち合わせから捻出し、全員で考えたということを匂わされれば、いつものように突っぱねることなどできなかった。
 タイミングがよかったこともあり、珍しく殊勝な気持ちになった鷹村はその場に居合わせた木村と青木に手短に礼を述べておいた。ついでに一歩と板垣にも伝えとけと託けてある。
 普段よりも突き放す口調になってしまったのは照れ隠しからきていた。それもすべてお見通しとでも言いたいのか、したり顔の木村は「はいはい」と返事を繰り返していた。
 にやにやと笑う青木があまりにもしまらない顔をするので、鷹村はつい反射的にその後頭部へと容赦のない拳骨をくれてやった。
 ゴチン、といい音がしたのを左手が覚えている。


 25にもなってよ、誕生日がちっと嬉しいってえのも恥ずかしいモンだな。
 鼻の頭を二、三度かいて、鷹村が苦笑した。盛大とは言えないが、毎年欠かさずに祝われるということが、この行事自体よりもまんざらではなかったのだ。


 気の早い蝉が、そこかしこで騒いでいる。


 ジムでの会話を思い出し、鷹村はふと一歩のことを考えた。
 青木はトミ子との時間を、木村と板垣は家族サービスをと聞いているが、たしか一歩だけはとくに何の予定も入っていなかったはずだ。母親が同窓会に出席する関係で、自営の釣り舟屋も二、三日ばかり休むといっていた。


 夕涼みがてら、一歩のところにでも顔を出しに行くか。
 ついでにクーラーボックスにつめるロックアイスでも恵んでもらおう。
 鷹村がぼんやりとこれからの予定を決めようとしていると、階段を駆け上がる音が聞こえた。かんかんかんかんっという慌てたような足音が頭に響く。
 大方ふたつ隣に越してきた大学生が後輩でも使って買出しに行かせたんだろう。息遣いまでもが聞こえそうな足取りだった。
 あちィってのによくやるぜ。
 自分もジムの後輩を顎で使うことが多いというのに、鷹村が独り言ちた。
 しかしそんな鷹村の予想に反して、足音は鷹村の部屋の前でぴたりとおさまった。そのまま一拍おいて扉を数度叩かれる。ノックというには乱暴で、中にいる住民を無理やり呼びつけるような無遠慮さがあった。
 おさまりかけていた苛立ちがじわじわと顔をだす。立腹を隠さずに鷹村が声を張り上げた。
「おいッ! さっきっからうるせぇぞ!」
 鍵はかけてねえーんだから勝手に入ってくりゃいいだろがと吐き捨てて、鷹村が重い腰をあげる。その拍子に何粒かの汗が滴って、それがまた鷹村を不愉快にさせた。
 立ち上がったついでに部屋の中央まで歩いていく。垂れ下がった紐をひっぱると、照明が二度ほど点滅してから部屋を照らした。
 突然の来訪者といえば、鷹村の一喝にうながされたのか、半ば転がり込むような勢いでわずかにあけた扉の隙間からすばやく室内に入ったようだった。
 ドアを後ろ手に背をあずけ、ずるずると腰を落とす様子に鷹村が瞠目する。


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掲載日2011年07月07日