Short*

Non riesco a respirare bene. 中編

「ンだよ、一歩じゃねーか。脅かすんじゃねーよタコ…っつーかよ、どうしたんだよ、ンなに慌てるこたあねーだろ」
 律儀にもノックを繰り返していたことから、だいたい誰が来たのかぐらいは予想していたが、まさか不自然なほどに青い顔をして駆け込んでくるとは思いもしなかった。
 驚きつつもへたり込む一歩を立たせ、中へ入ることを促すと、一歩はちいさく「すみません」と謝った。うつむいたまま、鷹村にすすめられたとおり部屋へと足を踏み入れる。

 ただ事ではなさそうな一歩の様子に面倒だと感じる反面、世話焼きな性分の鷹村はだるい身体をおして台所に立った。
 蛇口をひねると生ぬるい水が出る。しばらく流しっぱなしにしつつ、一歩に声をかける。
「あー、タイミングが悪ィな。ヤカンに茶がねーんだわ。水でいいか」
 肩越しに鷹村が一歩の様子をうかがうと、小さく縮こまって正座をしていた一歩がこくんと頷いた。
 水道水が冷えてきたかどうか確認して、鷹村がコップに水を注ぐ。
 ほらよ、とコップを手渡してやると、一歩は先ほどとまったく変わらない声でやはり謝罪を口にした。


 それっきりしんと静まり返る。対面している鷹村と一歩の間には、いつになく重苦しい空気が満ちていた。いい加減、せっついてもいい頃合だろうか。
「いきなり訪ねてきといてよ、そりゃねーんじゃねえのか」
 と鷹村が切り出そうとした時だった。コンマの差で一歩の方が話し出したのは。
 ちいさな、ほそい声に鷹村が眉をよせる。聞き取れなかったのではなく、瞬時に悟ることができなかったからだ。
 うつむいたままの一歩がぱっと顔をあげた。青白い頬がひきつって、いびつな笑顔をつくろうとしていた。


「別れてきたんです、好きな人と」

 今度ははっきりとした口調だった。一拍おいて、鷹村が口をひらく。
「…久美ちゃんと付き合ってたなんて初耳だぜ」
 鷹村の言葉には、ふてくされたような響きがあった。

 彼の立場を考えれば、わからないでもないだろう。


 間柴久美と目の前の後輩といえば、互いに思いあっているような素振りを見せていて、その実長い間ずうっと良いお友達どまりだったのだ。
 からかいつつも陰に陽に応援していた先輩としてみれば、お付き合いの報告をすっとばして失恋報告を聞かされるはめになるなど思いもしなかった。
 なまじ鈍いながらもそれなりに真面目で、不器用なほど律儀な一面のある一歩がそういった不義理をするとは思わなかったので、鷹村としては不愉快極まりなかった。
 正直腹も立つ。別に義務があるわけではないので構わないのだが、やはり裏切られたような気もして内心複雑だったのだ。

 一歩がかすかに息をのんで、膝のうえにおいた拳を握りなおした。
「…久美さんとじゃないんです」
 かわらず細い声だった。
 お付き合いしてたのは、と続けた一歩に鷹村が目を細めた。
 ほんの一瞬、鷹村は虚をつかれて返答に困ったような顔をしてみせたが、それもすぐさま訳知り顔となり、ついでにやりと口角をひきあげた。
 さっと立ち上がり、機敏な動作で一歩の真向かいへと座りなおす。あつさに中てられていた男の動きとは思えないほどのすばやさだった。
 互いの膝がぶつかるような至近距離で、鷹村が前のめりになった。一歩が驚いて後ろに仰け反るのも構わずに、鷹村が品のない笑い声を立て、大声をあげた。

「さてはファンの女の子でも食っちまったのか!?」
 まあなァ、連続防衛の化け物チャンピオンだなんだって騒がれてっしなあ、ついつい目移りしちまったってんだろ? 気持ちはわかるぜ。男なら、ま、誰だって経験あンだろ。それくらいはよ。でもまあ、お前の場合はちっとなあ、久美ちゃんが可哀想じゃねーか。
 まさに水を得た魚のようだった。鷹村のマシンガントークに、一歩が表情を曇らせる。
 憂さ晴らしも兼ねて必要以上におもしろおかしく騒ぎ立てた鷹村だったが、一歩の反応が想像していたものとは違ったのでいぶかしんだ。
 太目の眉尻をさげて、やはりぎこちない苦笑を浮かべている。
 ボクシングを始める前の、あのいじめられていた少年がよくやりそうな顔だと鷹村は思った。遠慮がちに、一歩が唇を動かした。
 かすかに震える肩が今にもくずれてしまいそうだったので、今度は鷹村が息をのむはめになった。


「ボクは今日、鷹村さんに軽蔑されにきたんです」

 意を決して口にしたであろう一歩に、鷹村は何も言えなくなった。そりゃあ付き合ってるって言ってもいいような彼女に黙って別のオンナとよろしくやってたことを言ってるのか、と口をはさむことすらできなかった。雰囲気的に、そういう話ではないのだろうと鷹村は察してしまったのだ。
 出された水に手をつけないまま、一歩は静かに鷹村の方を見た。
 黙って一歩の言葉を待つ鷹村に、一歩は少しずつ、ゆっくりと、断罪を請うように切り出した。

 一歩が話した内容は、どれも鷹村には衝撃的だった。
 妻子がいると知っていて身体の関係になったこと。それでもいいと思って一年も続けてしまったこと。はじめて人と付き合ったことで、二人の関係が不倫だと言う事を見落としていたこと。
 そしてそれらに気がついたのがつい先日だったことを、一歩はぽつぽつと語っていった。

 その口ぶりから鷹村がわかったことはといえば、相手を好きになってしまったことを後悔していないが、申し訳ないという気持ちでただただ辛いということだった。


 掻い摘んだことの成り行きを説明し終えた一歩が、はああと深いため息をついた。身体を強張らせて聞いていた鷹村も、一歩のため息をきっかけにはっとして、肩の力を抜く。
 表情のかたい鷹村に、一歩が諦観に似た笑みをこぼした。すぐさま謝罪の言葉がかけられる。

 鷹村の耳をうつ一歩の声には、悲壮感があった。

「馬鹿ですよね。…伊達さんには愛子さんっていう奥さんも、雄二くんっていうお子さんもいるのに。最初は本当に、あこがれのひとだったんです。あんなひとになりたいなあとか、そういう、まともな。でも途中から、ボクもわからないうちに好きになっちゃって。こんなのってダメだって思ってたんです。でも声をかけてもらえて、やさしくしてもらえて、ほんの少し遊んでもらって、それでよかったのに。それなのに、ボクは、あの人に大変なことをさせてしまって」

 みるみるうちに、一歩の大きな瞳がゆれ、涙でにじんでいく。
 鷹村は閉口したまま、握りこまれた拳の上に落ちていくそれから目を離すことが出来ずにいた。


 蝉が、ジジジジジとなき始めた。


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掲載日2011年07月07日